南三陸の町づくり、復興・発展を同時に進める


《東日本大震災10年 未来に繋げる希望(3)》

 東日本大震災による津波などで甚大な被害を受けた宮城県南三陸町。リアス式海岸の一角を形作るこの地域は、過去120年で2011年を含む4回の大津波を経験した。教訓を胸に「二度と命を失わない町へ」と決意を固め、「復興」と「発展」を同時に進める町づくりに、行政と住民が力を合わせて挑んでいる。

南三陸町

 

 山と海に囲まれ、海岸部にカキ養殖など日本有数の養殖漁場を持つ同町で、人々は豊かな自然を生かして生活してきた。しかし10年前、東北沿岸部を襲った津波によって町は瓦礫(がれき)の山と化す。死者620人、行方不明者211人。当時の世帯数の6割強に相当する3321戸が全壊または半壊した。

 震災以前から減少傾向にあった人口もさらに激減し、満身創痍(そうい)の町の課題として立ちはだかった。「被害の要因はほぼ100%津波。マイナスからのスタートだった」と、町役場の及川明企画課長は振り返る。

 仮設住宅は、19年末までに全入居者が退去。国の補助対象にならない世帯には独自の住宅再建支援を施し、町が打ち出した土地利用の原則が「なりわいの場所はさまざまであっても、住まいは高台に」だ。数十年に1度のペースで大津波に見舞われているこの地域で、どんな災害に遭遇しても命を守れる安全な町づくりのため、住宅や公共施設を高台に建て替え、避難場所や避難路も確保した。

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旧防災対策庁舎を囲むように整 備 さ れ た 復 興 祈 念 公 園(上)と被災直後の旧庁舎(南三陸町役場提供)

 「復興は行政の力だけで担うのは不可能だと痛感した。地域住民の力が復興の原動力」。今年1月に東京都が主催したオンラインシンポジウムで、講演した佐藤仁町長は語った。復興には行政と住民の努力に加え、地域おこし協力隊や移住者の果たした役割も大きい。町外からの移住者は、過去2年だけでも約100人という。

 町では珍しいたこ焼きとワインがコンセプトの飲食店を営む井原健児さん(42)は、南三陸の森と里と海の一体感、そして人々の温かさに魅せられて移住した一人。18年に地域おこし協力隊に着任し、それを卒業した今は地元の人々がよく通る町の一角で、店を切り盛りする毎日だ。店には子供の遊べるスペースを併設し、和食店の多い海の町で数少ない洋食店として親しまれている。

 「震災後、いろんな人が町にやって来たが、泥臭く本気で頑張っている人には惜しみなく手を貸してくれるのが南三陸の人々」と井原さん。移住前に暮らしていた仙台市に比べると不便なことはあるが、人の縁のおかげで店舗にするトレーラーハウスが見つかったり、漁師から海産物を譲ってもらえたりと、地元の人々の手助けに支えられているのだという。「しっかりした防波堤の建設や住宅は高台にしか建てないなど、いろんな意見はあるだろうが、町の景観を多少損なっても安全を優先する町づくりという明確な判断はすごいと思う。この10年で町づくりの基礎はできたはず。これからより魅力ある町にしていけたら」と話す。

 及川課長は「復旧ではなく復興。復興と発展を同時にやろうというのが南三陸の特徴」と語る。町の産業の要であるカキ養殖は、環境や地域社会に配慮した養殖業の国際認証・ASC認証を16年に取得。前年には、町有林などが良質な森林として国際認証のFSC認証を取得した。18年には志津川湾がラムサール条約湿地に登録され、町の魅力である自然を「南三陸ブランド」として打ち出している。

 観光地としての町の活気を担う南三陸さんさん商店街に加え、来年3月には道の駅が完成予定。同時期に震災伝承館「南三陸311メモリアル」も新設し、20年に全体開園した震災復興祈念公園と共に、震災の伝承にも力を入れていく。

 マイナスのスタートから10年。犠牲の痛みと教訓を胸に抱きながら、新しい町を作り、新しい町民を迎えた南三陸の人々は、前を向いて進んでいる。