南三陸「20代の語り部」 後輩に仲間の大切さ伝える
津波などの被害から立ち上がり、現在も復興を続ける宮城県南三陸町に、20代の「語り部」として自身の経験を伝える若者がいる。悲痛な体験をあえて振り返り、伝え続けるのは震災を「負の記憶」としてだけでなく、大切な教訓として未来に繋(つな)げていきたいという強い想(おも)いがあったからだ。
(一社)南三陸町観光協会職員、阿部悠斗さん(24)。同観光協会が行っている「20代語り部」の一人だ。
南三陸町観光協会は、震災の被害や復興の道のりを多くの人に知ってもらおうと、震災直後から職員が語り部ガイドとして、被災地を案内するバスツアーを続けてきた。2019年からは、新たな取り組みとして、10年前に中高生だった被災者の声を伝えるため、20代の若手職員が語り部となる企画を始めた。「震災復興祈念公園(旧防災対策庁舎)」や「旧戸倉中学校」などの震災遺構を巡るとともに、今ではオンラインでも当時の様子や教訓を伝えている。
阿部さんは、地元中学校の2年生の時に被災。翌日に先輩の卒業式が行われるはずだった中学校の体育館が突然、避難所に変わったことや、同級生らと避難所運営の手伝いをしたことなど、中学生の目線で、経験した震災体験を語り継いでいる。
「避難所では、食料などを率先して地域の方に配ったり、小学生や幼稚園の子供たちに図書室の本を読み聞かせてあげたりと、学生だからこそできたことがあった」と振り返る。
震災当日、阿部さんは避難所のある高台から、津波にのみ込まれる町を見下ろした。「町が黒いモノに覆われていて、よく見たら民家の屋根が山の方へと流れていた。悲しいとか、残念というより『これが津波なんだ』と、ただ茫然(ぼうぜん)とするだけだった」
3日後、学校まで歩いて迎えに来てくれた父親から家族の無事を聞き、安堵するのも束(つか)の間、「家が流された」と伝えられた。父親と様子を見に帰ったが、家は原形をとどめておらず、残っていたのは基礎だけだった。4カ月の避難所生活の後、仮設住宅で約3年過ごした。
家を失い、避難所と仮設住宅での生活を余儀なくされた阿部さんの心の支えになっていたのは同級生たちの存在だった。つらい時、一緒に遊んだり励まし合ったりしながら歩んできた仲間たちは今でも大切な親友だという。
「震災の恐ろしさはもちろん、この期間を学生として過ごしたからこそ気付けた仲間の大切さなども、震災を知らない子供たちに伝えていきたい」と思うようになり、「20代の語り部」を引き受けた。
当初は、町を案内するのが主な活動だったが、昨年からは新型コロナウイルス感染拡大の影響でインターネットを活用した、オンラインでの語り部活動も行っている。全国各地の学校などとビデオ通話で結び、当時の写真などを見せながら、防災の重要性や仲間の大切さを伝えている。
「震災を知らない子供たちに、学生としての経験を伝えることができるのは、当時10代だった自分たちだけ」。平穏な日常や仲間の存在は、当たり前ではないことを伝えたいという。
「(新型コロナの影響で)現地に来てもらうことは難しい時期だが、震災の町としてだけではなく、海や山など自然豊かな魅力ある町としても見てもらえるように、これからも発信していきたい」と意気込む。
(東日本大震災10年取材班)