三度目の正直、「世界へ」母に捧げた銀メダル
車いす陸上の大矢勇気選手、母も「喜んでくれると思う」
三度目の正直でようやくパラリンピックの舞台に届いた。競技用車いす「レーサー」で疾走する陸上男子100メートル(車いすT52)代表の大矢勇気選手(39)=ニッセイ・ニュークリエーション=。二人三脚で競技を支えた母の遺言は「世界に向けて頑張れ」。思いを胸に挑んだ舞台で見事に銀メダルを獲得し、「金で恩返しはできなかったが喜んでくれると思います」と感謝の涙を流した。
夜間高校に通っていた16歳の時、働いていた解体現場で8階の足場から転落し、脊髄を損傷。下半身まひとなった。死も頭をよぎったが、懸命にリハビリに励む他の患者を見て踏みとどまった。
転機は2005年。知人に誘われたパラ陸上大会に生活用車いすで出場して優勝し、その流れで出た全国大会だった。競技用車いすを使う選手に勝負をさせてもらえず、屈辱で唇をかみ、母洋子さんに1台50万円もするレーサーを「俺も欲しい」とねだった。苦しい家計の中で用立ててくれた母は、その後も練習の送迎など、風を切って走る息子を支え続けた。
洋子さんががんで亡くなったのは11年7月、ロンドン大会の最終予選当日だった。出場を取りやめ、切符を逃した。悲しみでしばらく放心状態だったが、兄忠洋さんから、母が言い残した言葉を知らされ、気持ちを新たにした。亡くなる数日前、「勇気を頼むで。世界の道に連れて行ってやってくれ」と兄に託し、「頑張れ」と息子の活躍を願っていた。
だが、不幸は大矢選手にも降り掛かる。14年、まひした下半身の床ずれに気付かず、骨髄炎を発症。入退院を繰り返し、練習が再開できるまで3年を要した。16年のリオデジャネイロ大会は挑戦すらできなかった。
衰えた体での再出発は、競輪選手を目指したこともある兄が後押しした。競輪の知識を生かした練習メニュー。つらいときは母を思い、坂道ダッシュなどで技と力を磨いた。勤務先の協力で練習時間も増え、今年7月には世界記録に0・3秒差に迫るアジア新記録を出した。
母が思い描いた世界への道。時間はかかったが、立派に走り切った。