「障害を抱えて戦う姿、コロナ禍に通じる精神」


全盲の59歳、パラ柔道松本選手、価値信じ3度目の大会

「障害を抱えて戦う姿、コロナ禍に通じる精神」

アテネパラリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた柔道男子の松本義和選手(中央)=2004年9月17日、アテネ(時事)

 東京パラリンピック柔道(視覚障害)男子100キロ級に出場する松本義和選手(59)=オルソグループ=は、人生を変えてくれた「パラの価値」を信じ、3度目の大会に挑む。新型コロナウイルスの影響で延期された1年、何度も思い返したのはパラリンピックの父、英グットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」という言葉。「障害を抱えて戦う姿で、不自由なコロナ禍の時代に通じる精神を示す」と意気込む。

 高校1年で緑内障を発症。右目の視力をほぼ失い、左目も日に日に低下した。自分が惨めで周囲に悩みを打ち明けられず、運動や勉強ができなくなると「サボり」を装ってごまかした。いつしか付いたあだ名は「タイマン(怠慢)」だった。

 大学に進む友人や医大生の兄に引け目を感じ、視覚障害者の訓練施設に入る時は悔し涙が出た。20歳で完全に視力を失うと、破れかぶれで車道の真ん中を歩いたことも。24歳で鍼灸(しんきゅう)院を開き、何人も雇う成功を収めても、達成感は得られなかった。

 鬱屈(うっくつ)した思いを変えたのは大阪府立盲学校(当時)で始めた柔道と、38歳で初めて出た2000年のシドニー大会だった。「出るまで18年かかったが、人生観を変えてくれる出会いがあった」と振り返る。

 選手村の海外選手の明るさは新鮮だった。障害を個性として隠さない姿にエネルギーをもらった。車いすの女子選手と「生まれ変わって障害を負うなら車いすと全盲のどっちがいいか」と話し、お互い「今と同じでいい」と笑い合ったとき、障害を素直に受け入れている自分に気付いたという。

 銅メダルを獲得して帰国すると、多くの祝福が自信となり、交際相手にプロポーズする勇気も持てた。4年後のアテネ大会では旗手に。堂々と胸を張って歩いた。

 「もう一回、あの喜びを」の一念で、引退せず挑み続けた。16年かかって出場を決めた東京大会はさらに1年延期された。ぼろぼろの体、練習場所の閉鎖、それでも「しんどいことには慣れっこや」。グットマン博士の言葉を思い、笑い飛ばしてきた。「メダルはたぶん無理、でも必死にもがく。戦う姿を見せる」