所信貫いた朴元大統領
1965年、朴正煕大統領(当時)は所信通り日韓国交正常化を実現させた。
当時、「朴正煕は日本軍将校出身の親日派、売国奴だ」と非難され、反対デモが激しかった。ところが、朴元大統領は満州軍官学校2年修了後、日本陸士に2年間留学して満州軍将校に任官した。従って日本軍将校ではなく満州軍将校だった(陸士55期、牟田熙雄氏証言)。
1969年、朴元大統領は談話文で「韓日国交の際、私は野党から売国奴と悪口をいわれ、ベトナム派兵は若者の血を売ると非難されました。借款を得て経済発展を急ぐ私に対して野党は借款亡国と非難する一方、高速道路建設を国土解体と非難しました。所信通り前進する私を独裁者だと誹謗(ひぼう)、中傷、謀略、悪談を繰り返しました。野党が“反対のための反対”を繰り返す限り、誰が大統領になっても、逆に独裁者と呼ばれる大統領が本当に国民のための大統領だと私は考えます」と述べた。
日韓国交正常化に伴い日本が提供した有・無償5億ドルと商業借款3億ドルは最貧国だった韓国経済成長の牽引(けんいん)車となった。「西独借款」、「日本の経済支援」、「在日誠金」(在日韓国人からの寄付)、「ベトナム派兵」、「中東建設・産業戦士」の血と汗と涙が肥料となり今日、豊かな韓国経済として実った。当時、西独を訪れた朴大統領は派遣された鉱夫と看護師の前で「われわれの子孫に貧乏を絶対に引き継がせてはいけない」と演説の途中に涙を流し、会場が“涙の海”に変わったことが記憶に新しい。朴元大統領の偉い点は野党の激烈な反対にもかかわらず所信を貫いた点にある。
特に、南北が対峙する“準戦時”の状況の中で「経済成長」と「自主国防」の基盤を築いた点。韓国には「貧乏は国も救えない」ということわざがあるが、その貧困問題を解決したわけだ。だから今でも歴代大統領の中で一番尊敬される。長女が韓国初の女性大統領に当選したのも、父親の威光がなければ不可能だっただろう。長女も父親の遺伝子・DNAを受け継ぎ、所信に従って強力なリーダーシップを発揮するだろうと期待されたが、国民の期待感は徐々に低下している。
一国の指導者は国民の顔色ばかり見てはいけない。政治家は人気者や芸能人ではない。人気取りの政治が逆に人気の下落を招くことは少なくない。それだけでなく、大衆心理・世論に傾いたポピュリズム政治は国家の将来を誤る恐れがある。
国民の生命と財産を守る「安保」と「経済」は国家の存立を左右する車の両輪だ。韓国が親中路線をとるのは経済的な都合からだが、政治的には「日米韓 安保パートナーシップ」が必要不可欠なのだ。「政経分離」路線こそ韓国にとって望ましい外交・安保路線である。
遠い強大国と親交を結んで隣の強大国を牽制する「遠交近攻」と「勢力均衡」は歴史上、永遠に変わらぬ「外交・安保の鉄則」である。そして、歴史の鉄則を無視すると国家的な災いと危機を招くのが歴史の教訓である。
一国の指導者は大型船の船長と同じだ。国の行くべき正しい方向に舵(かじ)を取り、国策をうまくハンドリングしなければ、暴風に巻き込まれる恐れがある。
(拓殖大学客員研究員・元韓国国防省北韓分析官)