古典で読む神仏習合史

神道土台に仏教根下ろす

市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏に聞く

 古来からの日本人の信仰の特徴は、神道的風土の上に仏教が受容された神仏習合である。その実態がどんなものか、とりわけ皇室祭祀(さいし)を担う天皇と仏教について、日本最古の仏教説話集『日本霊異記』を題材に梶謙治・市谷亀岡八幡宮宮司に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

最古の仏教説話集『日本霊異記』
仏教流布に大きく貢献

『日本霊異記』とは。

梶謙治氏 かじ・けんじ 法政大学文学部日本文学科卒業の後、國學院大學文学部神道専攻科を修了し神職。27歳で父の跡を継ぎ、室町時代、太田道灌が江戸城の西の護りとして勧請した市谷亀岡八幡宮の宮司となる。古典に詳しく、日々の務めのほかブログ、講話、人生相談などで神道を広めている。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。[/caption]

 正式名称が『日本国現報善悪霊異記』で、平安時代初期に書かれ、仏教の流布に非常に大きな役割を果たした。上・中・下の3巻から成り、成立年は弘仁13年(822)とする説が有力だ。著者は奈良・薬師寺の僧、景戒(きょうかい)で、薬師寺に入る前は妻子と共に俗世で暮らしていたというから、国家の許可を得ない私度僧だったと思われ、庶民の間での仏教に詳しい。仏教を広めるためにいろいろな話を集めたのは景戒の情熱で、野の人だからこその著作だ。

 薬師寺は教学を尊ぶ南都仏教の一つ法相宗で、境内に墓はない。南都仏教は三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の6宗により成り、奈良時代を最盛期として平城京中心に活動した。天台・真言両宗の平安2宗に対する名称で、中国諸宗派を受容するための宗義の研究が中心で、葬儀は行わない。宗教施設の寺というより今の大学に近く、華厳宗を習うのなら東大寺などと、修行僧はそれぞれの寺に通い学んでいた。僧侶も釈迦(しゃか)の教えを色濃く残し、私有財産を持たず、托鉢(たくはつ)で暮らしながら、仏教を広めていた。

 『日本霊異記』下巻の文末に「われ聞くところに……」とあるように、当時、流布していた説話を集めたもので、上巻に35話、中巻に42話、下巻に39話の合計116話が収められている。奈良時代のものが多く、古いものは雄略天皇の頃。場所は畿内と周辺諸国が多く、特に紀伊国が多い。登場する人物は、庶人、役人から貴族、皇族に及び、僧も著名な高僧から貧しい乞食僧まで出てくる。説話は事実を伝えるものではないにせよ、そこから当時の世相をうかがい知ることができる。

怪奇な話ばかりか。

 正式名称から分かるように、仏教の教えとしての因果応報を示す説話が多く収録されている。説話の大部分は善をなして良い報いを受けた話、悪をなして悪い報いを受けた話のいずれか、あるいはその両方だが、一部には善悪と直接関わりない怪異話もある。善悪は必ず報いをもたらし、その報いは現世のうちにくることもあれば、地獄など来世で被ることもあるというのは輪廻転生の教えの反映で、奇跡や怪異についての話が多いのは、それだけ印象的に人々に伝えるためであろう。

 仏像と僧は尊いものとされ、善行には施し、放生などに加え、写経や信心一般がある。悪事には、殺人や盗みなどのほか、動物に対する殺生、狩りや漁を生業にするのも含まれる。とりわけ悪いのが、僧に対する危害や侮辱である。説話の中では、動物が人間的な感情や思考をもって振る舞うことが多く、人間だった者が前世の悪のために牛になる話もある。

上巻の序には、応神天皇の時代に儒教が、欽明天皇の時代に仏教が伝わったと書かれている。そして上巻の第1話「雷をつかまえた話」が仏教渡来以前の5世紀の雄略天皇時代の話なのはなぜか。

 第1話は次のようなものだ。「雄略天皇の武官・栖軽(すがる)は天皇に雷を捕えてこいと命じられ、栖軽が天に向かって『天皇がお呼びであるぞ。雷神であっても、天皇のお呼びを拒否することができようか』と叫ぶと、雷が落ちてきた。雷を輿(こし)に乗せ、宮殿に運んで天皇に見せると、雷神は光り輝いた。天皇はこれを見て恐れ、雷にたくさんのささげ物をして、落ちた場所に返させた」

 これは仏教の話ではなく、古来からの日本の伝承である。こうした話を最初に掲げることで、読者が話を受け入れやすくなっている。雄略天皇は反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて大和王権の力を飛躍的に拡大させ、強力な天皇とされる。埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌(ぞうがん)鉄刀銘に刻まれた「獲加多支鹵大王」を『記紀』に記された雄略の実名である「ワカタケル」で、『宋書』に記された「倭の五王」中の武に比定され、実在が確実視されている最古の天皇である。

第4話は「聖徳太子が不思議な言動を示された話」だ。

 聖徳太子が10人の話を同時に聞き分けられたこと、病気の乞食の姿をしていた聖人を見分けたことなどが語られている。日本人が最も尊敬する聖徳太子の話を持ってきたのは、景戒も聖徳太子から日本の仏教が本当に始まったことをよく知っていたからだ。日本は文化の根底に皇室があり、仏教が今日のような様相を見せるようになったのも、聖徳太子の時代に皇室が率先して仏教を受容したことが大きかった。それゆえ庶民に仏教を流布させる際にも、皇室の古事を引いたのだろう。

 同時に、既に因果応報、善因善果、悪因悪果の諸相がごく一般に信じられていたことがうかがえる。記紀神話の中に因果応報は書かれていないが、それをもって日本には因果応報がなかったとは言えない。仏教が一般に流布する段階において、因果応報という言葉で再認識されたというのが正確な言い方であろう。実際には、良いことをすれば良い目に遭う、悪いことをすればその報いを受けるということは、日本人の経験知としてあったから、仏教の論理がスムーズに受け入れられたのだろう。

 日本では早い段階から因果応報が、神々を祀(まつ)る形態の中にあって、経験知として組み込まれていたと思われる。

 景戒は、神道という信仰土台に仏教が根を下ろし、日本固有の宗教観信仰観ができる黎明(れいめい)期ゆえに、「外国ばかり見るな、日本には日本の仏教があり、いろいろな不思議な出来事がある」とも言っている。