明治維新150周年 利己的資本主義克服する契機に
岩国市議会議員 前野弘明氏に聞く
2018年は、明治元年(1868年)から満150年の年に当たる。各メディアはそれぞれ特集を組んだり、地方自治体ではゆかりの人物像を軸に式典やイベントをこなした。維新発祥の一つの地である山口県に在住する岩国市議会議員の前野弘明氏に、歴史が突き付けている「維新150年」の課題を聞いた。
(聞き手=池永達夫)
道徳が息づく経済活動へ
継承すべき伝統的価値
今年は明治維新150周年ということで、さまざまに論評されてきたが、維新発祥の地・山口から、どういうふうに見ているのか。

まえの・ひろあき 昭和28年4月29日、岩国生まれ。広島大学理学部物理学科卒、高村正彦衆議院議員秘書。平成3年、岩国市会議員初当選。議会では建設常任委員長、経済常任委員長、副議長歴任。座右の銘「誠実貫徹」。
後講釈(あとこうしゃく)になるかもしれないが、明治維新がどういう時だったかというと、本来、変革すべきだったのは西洋列強が持ってきた利己主義によって支配された資本主義を、江戸時代に組み立てられた道徳性の高い経済で、乗り越えないといけなかった。それができなかったわけだが、もう一度、チャレンジしないといけない歴史的課題が残っている。その核心的部分を、しっかり見詰め直す契機にこそすべきだ。
150年前に片付けられず、積み残した問題を改めて直視しないといけない。そのあたりのことを突いている新聞や雑誌は、あまり目に付かなかった感がある。
現在、人類の1、2%の人が世界の財産の大半を握っているという。
江戸時代は「宵越しの銭は持たない」といって、金が回っていた。貯蓄がない社会がいいというわけではなく、金が循環していく経済でないと駄目だ。そういう意味でも、世界の経済発展にお手伝いができる日本になるべきだ。そういう反省ができるかどうかだ。
維新の立役者になった薩長を中心とした人間山脈を辿(たど)るのもいいが、大きな歴史的な目で課題は何であったのか、きちんと整理すべきだ。
西洋の個人主義というのは、全面的に悪いわけではない。個性や主体性を尊重するのは人間の本性に近く、文化や経済の活力源になってきた。ただ、一方でエゴイズムという、自分さえ良ければいいという拝金主義にもつながっていく負の側面を克服できなかったという問題は確かにある。
江戸時代は個が押さえ付けられていた時代でもなかった。今よりもひょっとしたら、自由だったかもしれない。
維新というのは江戸時代の延長線上で、日本が世界の中で生き延びる方向性を示すべきものだった。ところが、西洋列強の植民地主義から、何とか守ろうというのが、中心になり過ぎて、本当に昔のよき時代の核心的価値が継承できなかったのではというのを感じる。
特に大東亜戦争が終わった後、社会はこぞって江戸時代を無視した。江戸時代というと、古くさい伝統主義みたいな感じで扱われたのだ。
これから課題になってくる憲法改正問題にしても、そういうものを地盤にした改正が問われてくる。
そもそも、時代を織り成してきた伝統文化を無視することはできない。維新150年の節目にあって、それを考えないといけない。
その意味では全国レベルで、隠れた人材や構想など、すべてを出し切ってみて、本当に残さないといけないものを整理したらいい。いわば、歴史的な「棚卸し」だ。
また、戦後教育は権利を教えた。それまでは義務ばかりだったから最初はバランスがよかったが、やがてオーバーシュートする。これをもう一度、元に戻す必要がある。
山口県としても維新発祥の地だからといって、威張っても仕方がない。自慢したがるのも人間の営みとして理解できなくもないが、そういうスタンスではまずい。
どうすれば「道徳性のある経済」はつくれるのか。
人は何億円という収入があっても、食べれる量は限られている。消費も限られる。そんな金を持ってどうするのかという話だ。
ここなら金を投入しても惜しくはないといった制度や機構が出来たらいい。その「工夫」ができるかどうかだ。政治ができるのは、そこの部分だ。
欧米では慈善団体に寄付する風土が残っている。ビジネスの成功者は、大抵、そうするし、実際にそうした寄付文化が稼働している。
だから、稼げるだけ稼いでしまえといった部分があるかもしれない。
ただ、基本的には道徳が真ん中にあって、経済活動とつながっていくことの方が正解に近いように思う。経済あっての道徳というのは多分ない。
その意味では、道徳の根幹となる心情的な幹を、家庭の中で育むために、家族を大切にする家族主義、家庭教育を大切にする制度づくりが大事になる。
家庭の中を干渉しす過ぎるのもよくないが、干渉しないのはもっとよくない。その兼ね合いが大事だ。そこは知恵が必要だろう。
私は東沢瀉(たくしゃ)先生のことを30年、研究してきた。
沢瀉先生は学者肌の人物だ。松陰先生から比べると行動力で、大きな違いがあるのは否めないが、学問的レベルにおいては非常に深い世界があった。
沢瀉先生の何がすごかったのか。
沢瀉先生は「西の松陰、東の沢瀉」と言われるような人物だった。
陽明学を学び、尊皇攘夷の情熱に突き動かされて行動し、獄にもつながれているが、流刑の絶望にあって、沢瀉は書物に没入。「学問が最も進んだのは獄中での勉強であった」と後に述べている。やがて島内の若者が沢瀉に学ぶようになり、島外から訪ねて来て学ぶ者まであった。
やがて保津(岩国市)の海辺に住んだ沢瀉先生の評判を聞きつけた者が集うようになり、私塾・沢瀉塾を開く。それから14年間、人材育成に尽力。全盛期には五つの学舎が立ち並び、たくさんの学生が寄宿して学んでいたといわれる。松陰の兄・杉梅太郎(民治)も教えを請うたと伝えられる。
沢瀉先生が傾倒した陽明学は、仏教や武士道の精神的土壌の下に、孔子の教えを実生活に生かす実践的生活に重点を置いているところは、「道徳性のある経済社会」構築に向けたヒントがあるように思う。