「日本書紀」編纂1300年の宮崎

山と海 和解・共存の国造り

青島神社宮司 長友 安隆氏に聞く

 晴天に恵まれた宮崎市の正月、「鬼の洗濯板」で知られる青島神社は大勢の初詣客でにぎわった。天孫降臨から神武東征の神話がある宮崎県には、各地に古い伝承が息づいている。山幸彦と海幸彦の神話にちなむ青島神社の長友安隆(やすたか)宮司に、「令和」の御代への思いを伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

新文化に思い馳せる令和
人事尽くし神意待つことで和へ

今年は『日本書紀』編纂(へんさん)から1300年に当たります。

長友安隆氏

 ながとも・やすたか 昭和50年、宮崎市生まれ。早稲田大第一文学部で日本の近現代史を学び卒業。國學院大學専攻科で神職の資格を取得し、同大大学院修士課程で近現代神道史を修め、明治神宮に出仕。27歳で宮崎に戻り、青島神社の禰宜となり、平成16年に第20代宮司に就任。体験型の神事を取り入れ、地域活動に参加するなど神社と地域の活性化に努めている。

 宮崎県は『古事記』編纂1300年の平成24年から「記紀編さん1300年記念事業」に取り組んでいて、今年はその最終年です。10月17日から12月6日までの51日間、国民文化祭(国文祭)と全国障害者芸術・文化祭(芸文祭)が開催されるので、県はこの大会を記念事業の集大成と位置付け、「山の幸海の幸いざ神話の源流へ」をキャッチフレーズに、宮崎が誇る日向神話や神楽などを国内外に発信しようとしています。

 陛下は皇太子時代から国文祭に臨席されていたことから、今年の国文祭にも宮崎にお成りになる予定で、とても光栄なことです。文化・芸術の祭典なので宮崎の神話を広く知っていただく機会にしたいですね。

天孫降臨神話の地、宮崎は天皇家のふるさとと言えます。

 日向神話では、アマテラスの孫ニニギが降臨し、国津神(くにつかみ)の娘コノハナサクヤと結ばれ、誕生したヒコホホデミ(山幸彦)が海神の娘トヨタマと結婚し、ウガヤフキアヘズが生まれます。ウガヤフキアヘズとタマヨリの間に生まれたカムヤマトイワレヒコが大和に東征し、橿原で即位して神武天皇となります。

 高天原から降りた天孫族が、地上にいる違う考えの人たちとも共存し、和解しながら結ばれていく過程を示すのが日向神話で、国造りの大事な一場面です。山の民が海を鎮める方法を知っている海の民と結び付くことで、民の安寧を図る国造りを進めたのでしょう。そして和解の象徴として次の世代が生まれます。

青島神社のいわれは。

 周囲1・5キロの亜熱帯植物が茂る青島に鎮座する青島神社の御祭神は、山幸海幸神話にちなむ彦火火出見とその妻・豊玉、そして潮流や航海を司る塩筒大神です。そうしたいわれから、本社は縁結び、安産、航海安全の神として信仰され、宮崎が新婚旅行のメッカだった1960年代後半から70年代後半にかけてカップルの定番地でした。今は恋愛のパワースポットとして人気が高まっています。

山の民と海の民との出会いですね。

 そうした出会いと交流から新しい技術や文化が生まれてくるのです。文化は伝統と革新を繰り返しながら発展していくもので、干支(えと)の始まりである庚子(かのえね)の今年は東京オリンピック・パラリンピックもあり、未来に向かって発展していく可能性に満ちています。陛下がお生まれになった昭和35年も庚子で、今年は還暦を迎えられます。

神武天皇が東征の船出をしたとされる日向市美々津町を訪ねると、立磐神社に「神武天皇御腰懸磐」がありました。

 神武天皇が出航の際にこの岩に腰掛け指揮したとされ、社名の「立磐」もこれに由来しています。立磐神社の御祭神は神武天皇と航海神の住吉三神です。

 神武天皇が船を建造し、8月1日の昼に出航の予定でしたが、風向きが変わったため早朝に繰り上げ、「起きよ、起きよ」と家々を起こして回ったそうです。このことから、神武天皇が乗った船は「起きよ船」と呼ばれ、美々津では旧暦8月1日に「起きよ祭り」が行われ故事を語り継いでいます。

日本海軍の発祥地です。

 神武天皇が美々津で軍船を建造し、筑紫に向けて船出したことから日本海軍の発祥地とされ、昭和15年の皇紀2600年を祝う事業として、美々津に「日本海軍発祥之地」碑が米内光政海軍大臣の筆で建立されました。

宮崎には古代からの文化が根付いています。

 天孫降臨神話のある高千穂をはじめ県内各地の集落ごとに伝統的な神事の里神楽が残っています。県もこの機会に、宮崎の神楽をユネスコの世界文化遺産に登録する運動を進めています。

「令和」については。

 『大漢和辞典』で「令」の意味を調べると、神職が冠を付け、ひざまずいて神意を聞いている姿の象形文字で、「和」は、禾(のぎ)へんは軍事、軍門を、口(国構え)は互いの成約、和睦を納める箱を表し、令和は人事を尽くして神意を待つことが和につながるという意味になり、改めてその意味の深さに感心しました。

 ましてや出典がわが国初の歌集である『万葉集』の冒頭で、大宰帥・大伴旅人が邸宅で開いた「梅花の宴」で詠まれた歌32首の序文から採られたものです。序文を全部読むと、「明け方の嶺に雲が往き交い、松の枝は薄絹のような雲を掛け、 夕方の山の洞には霧が立ちこめ、鳥は鳥網のような薄霧に封じられて林の中を迷っている。庭には生まれたての蝶が舞い、 空には年を越した雁が帰ってゆく」と、当時の日本の自然が描かれ、心豊かな民族の自然に対する思いから文化が生まれ育ってきたことが感じられます。

唐新羅連合軍に白村江で日本軍が大敗した663年から70年を経過し、唐の脅威が薄れた時代でした。

 令和は新しい平和の文化に思いを馳せる時代のように感じます。陛下は水がご専門で、改めて文化と自然との関わりに国民の意識が向けられる契機になるのではないでしょうか。新しい技術革新の方向性も、そこにあるように思います。

 日本は明治以降、陸に上がり過ぎた感があります。防災にしても、高い壁を造って水害に備えてきたのですが、それには限界があることが東日本大震災などで分かりました。忌避するよりは、深く交わり折り合いを付けることが大事です。陛下の大御心のように、わが国も水運をはじめ河川、海に関心を向けると、新しい日本の産業発展もあるのではないかと思います。