仁徳陵世界遺産、古代を知って現代に繋ぐ


 仁徳天皇陵(大山古墳)を含む「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録される見通しとなった。令和への御代替わりから間もない時に、天皇や皇族の葬られる陵墓が初めて登録されることを喜びたい。

天皇がまだ大王(おおきみ)と呼ばれていた頃の遺跡だが、それが今日の皇室に繋(つな)がっていることは世界的にも稀有(けう)なことだ。その価値を再認識するきっかけとしたい。

 「顕著な普遍的価値」

 登録されれば、国内の文化遺産は昨年の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)に続いて19件目。自然遺産を含む国内の世界遺産は23件となる。

 百舌鳥・古市古墳群は、百舌鳥エリア(堺市)と古市エリア(羽曳野、藤井寺両市)にある4世紀後半から5世紀後半にかけて築造された49基の古墳で構成される。墳丘の長さが486㍍で日本最大の前方後円墳であると同時に世界最大の墳墓である仁徳天皇陵古墳や全長425㍍の応神天皇陵古墳などの巨大古墳と、さまざまな大きさと形の古墳が含まれる。

 ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)は「傑出した古墳時代の埋葬の伝統と社会構造を証明しており、顕著な普遍的価値がある」と高く評価している。

 これら古墳が築かれた時代は巨大古墳の世紀とも言われる。日本独特の古墳、前方後円墳が巨大化し、副葬品が前期古墳時代の鏡など呪術的なものから、甲冑(かっちゅう)や鉄剣、鉄刀、馬具など軍事的なものが中心となる。

 この時代、大王たちは大陸や朝鮮半島と積極的に関係を持った。中国の史書「宋書」に、倭(日本)の5人の王、讃・珍・済・興・武が朝貢したとの記述がある。宋書や中国・吉林省にある高句麗好太王碑の碑文から、この頃に倭が朝鮮半島で軍事行動を起こしていたことが明らかとなっている。

 仁徳天皇陵古墳などは、当時大陸や半島への航路の発着点となっていた大阪湾に臨む位置にあり、海からもその威容を望めたに違いない。小さな島国の日本で世界最大の陵墓が築かれた理由の一つが、そのあたりにあるかもしれない。古墳群は当時の東アジアの国際関係を考える上で貴重な遺跡だと言える。

 登録の見通しに至るまでは12年近くを要し、国内審査で推薦が3回見送られた。今回が「4度目の正直」という。遺跡の価値を信じ、粘り強く実現に向けて努力してきた担当者や地元の人々の労を多としたい。

 登録された49基の古墳のうち、宮内庁が管理するのは29基に及ぶ。保存のための学術調査、教育や観光での利用など、これまで以上に人々の関心が高まることを期待したいが、陵墓であることを忘れず、皇室の祖先に対する敬虔(けいけん)さを持って進めていく必要がある。

 周囲の景観や環境も重要

 悠久の古代に思いを馳(は)せるには、遺跡の周囲の景観や環境も重要だ。古墳には住宅地が密接しており、これ以上の宅地開発はできるだけ避けるなど適切な対応が求められる。