タイ国王死去、愛国の念を貫いた「大地の父」
タイ国民にとって、プミポン国王はかけがえのない存在だった。その国王が大樹が倒れるように逝った。タイ国民は国王を「大地の父(ポー・クロン・ペン・ディン)」と呼んできた。仏教の保護者であり国軍の統帥権を保持する国家元首への敬意ばかりでなく、国の混乱時には自ら先頭に立って収め、難局を打開してきた「国家の大黒柱」への敬愛が込められている。
共産化の防波堤を構築
とりわけプミポン国王の政治的影響力の強さと英明さを世界に知らしめたのが、1992年に国軍と民主化運動グループの間で起きた「5月流血事件」だった。
同年春、スチンダ国軍最高司令官が「自分は首相にはならない」と公約していたにもかかわず、首相に就任したことで、バンコク元市長のジャムロン氏を先頭に退陣を求めるデモが激化、鎮圧に乗り出した国軍の発砲で多数の死傷者を出した「5月流血事件」で国が揺れた。
見かねた国王はスチンダ首相とジャムロン氏を王宮に呼び「このままだと国が亡ぶ。がれきの山の上で勝利の旗を振って何の意味があるのか。デモ隊は家に帰れ。軍は兵舎に帰れ」と諭し、騒乱を一夜で収めたことは今でも語り草だ。国家の守護神としてのプミポン国王の責任感と愛国の念こそは、タイ国民がこぞって「大地の父」と呼んできたゆえんだ。
プミポン国王は1927年に米国で生まれ、20代半ばまでの大半をヨーロッパで過ごした。即位直後に宮殿の寝室で額を撃ち抜かれて死亡した兄王の後を継ぎ、第2次大戦後の46年、タイ現王朝の9代目国王に即位。衰微していた王権を、国軍との二人三脚で徐々に回復させていった。権力はあるが権威が欠落している国軍を、王室が補強する形で国家の安定度を高めた。
とりわけ60年代以降、インドシナ半島のベトナムやカンボジア、ラオスなどが相次いで共産化した時、「自由の国」を意味する国名のタイが西側陣営と協力しながら共産化の防波堤を構築していったことは歴史的功績として評価される。
また、その政治的安定度の高さが日本など外国企業の投資を呼び込み、東南アジアの優等生として自動車をはじめとした産業基盤造成に成功した経緯がある。プミポン国王は親日家として知られ、日本の皇室との関係も深かった。
ただ問題は、そびえ立つ権威が国王個人に帰属していることだ。王位は継承できても、権威や国民からの敬愛の念は簡単に受け継げるわけではない。
国王の長男のワチラロンコン皇太子は「国民とともに哀悼の意を表する時間を持ちたい」と述べ、すぐに新国王には即位せず当面は皇太子として職務に当たる意向を示した。
末永い王室継承を祈念
なお、周辺国では王室の衰退ぶりが顕著だ。ラオスの王室は75年の共産革命で歴史の中に葬られ、ネパールでも近年、王政を廃止した。カンボジアやマレーシアでは王室が残ってはいるが、儀礼的存在でしかない。
その意味でも、伝統と国家の束ね役としての末永いタイ王室の継承を祈念したい。