相模原殺傷判決、偏見を生む土壌を根絶しよう
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で2016年、入所者の男女ら45人が殺傷された事件で、横浜地裁は元職員植松聖被告に求刑通り死刑の判決を言い渡した。抵抗できない入所者を次々と襲い、19人を殺害する前例のない凶悪な犯行は社会に大きな衝撃を与え、障害者への偏見や差別意識など深刻な問題を突き付けた。
事件の背景に踏み込めず
青沼潔裁判長は被告の責任能力を認めた上で「強烈な殺意に貫かれた犯行で、結果は他の事例と比較できないほど甚だしく重大だ」と指摘。「酌量の余地は全くなく、厳しい非難は免れない。死刑をもって臨むほかない」と述べた。
ただ裁判の争点が、大麻を乱用していた被告の責任能力に絞られたため、事件の背景に踏み込めなかったのは残念だ。植松被告は「意思疎通ができない重度障害者は安楽死させるべきだ」「社会の役に立っていない」などの発言を繰り返した。
被告は、最後までこのような考えを改めることなく、被害者や家族への心からの反省の言葉はなかった。このような歪(ゆが)んだ薄っぺらな考え方は、十分に解明されていない被告個人の異常性からくるものとして片付けることはできない。事件後、障害者に対する被告の主張に同調するインターネット上の書き込みが多数あったことを見ると、社会の一部に生命の尊厳性に対する根本的な認識不足や障害者への偏見を生む土壌があることを残念ながら認めざるを得ない。
生命の尊厳性は「生産性」や社会の役に立つ立たないなどの次元を超えたものである。この世に生を受けた人間の価値は、われわれ人間の判断で決することはできない。
このような唯物論的な人間観は、大量虐殺を行ったカンボジアのポル・ポト政権など共産主義体制で多くの悲劇を生んでいる。被告の極端な独り善がりの考えにつながりかねない唯物論的、功利主義的な風潮が日本社会の一部に横たわっていることを直視する必要がある。
裁判では被害者側に配慮し、大半の被害者の氏名が匿名で審理された。しかし、19歳で犠牲となった「美帆さん」の母親は、法廷で「娘は甲でも乙でもない」と名前を明かして「私は娘がいて幸せでした。決して不幸ではなかったです」と涙を流しながら陳述した。
「障害者は不幸しか生まない」という浅薄な主張を続けていた被告は、これをどう受け止めただろうか。この事件で、障害者や家族の思い、その暮らしぶりがメディアで伝えられたが、懸命に生きる姿や家族愛と絆の強固さに学ばされることが多い。
障害者やその家族は健常者とは異なる多くの苦労や不自由がある。しかし、それ故に、ある面で健常者よりも家族愛を深め、本質的で幸福な人生を送っていることを知らされる。
生命の尊厳性を考えたい
障害を持った人々への偏見・差別が、間違った人間観や人生観に基づくものであり、愚かなことであるとの認識を日本社会に浸透させなければならない。そして、生命の尊厳性、人生の意味、本当の幸福といった問題を改めて考えたい。