生きる愛のパワーを
平成30年という一つの区切りを思わせる今年も、あと僅(わず)かで終わる。
今年を振り返り、本庶佑氏のノーベル賞受賞などの喜びの陰に、元東大教授の著名な論客、西部邁(すすむ)氏の“自殺”事件があった。
日本人の感覚で、自殺は許容されるようだが、私はやはりそれは許されないこととして残念に思う。西部氏は、多くの日本人の心を掴(つか)み、リードしてきた有能な時代の牽引(けんいん)者だったはずだ。
その強いはずのリーダーが、自ら“自裁死”と称して遺書を残し、1月21日早朝、多摩川で入水自殺を遂げたという記事を読み、驚いた。既にそれは覚悟の自殺だったようだが、私の心中にはある種の、深く心を傷つける許せない行為として残っている。
原因は妻の死のようだが、いずれ強い絆を持つ夫婦であっても、どちらかが先に死を迎えるのは人生の決まり事である。愛し支え合っていまだ強い絆は、人間が生きる上での夫婦、親子の縁として、死しても残るものである。その深い夫婦愛は、ヒューマニズムの原点であり、子や孫を支える人生の基本として、保たなければならないであろう。
夫婦のどちらが先に亡くなっても、残された者は、その墓を守り、残された家族を守り、懸命に生きなければならない。亡き父母も、また先立った妻も、その責務を果たしてくれるように期待しているはずである。
いかに愛し合っている夫婦であろうとも、人間の生きる道とは、強い心で悲しみに耐えて遺(のこ)された子や孫のために、力を尽くして支え慈しむ親の心を、失ってはいけないのだ。人間の生涯の務めとは、命ある限り、家族への愛と責任を果たし続けることではないかと、私は考えている。
人間の生きる道の基本となるのが、その家族愛であり、親子、兄弟姉妹の支え合う心が人生の苦悩に耐える“力”となるのである。
夫婦は本来、他人との結び合いである。
しかし、そこに生まれる真実の愛のパワーが、家族を生み育て、それが人類の繁栄となり、ヒューマニズムとなって世界が形成される。即(すなわ)ち、人間の知性と努力が、地球人類を生かし、幸福へ導く“人間性”を生み出していくのである。
そこに、人間の“絶望”は生まれず、命ある限り世のため、人のために尽力する真の人間の姿があるのではなかろうか。しかし、西部邁氏の自死は、人間の心の弱さを示したものでしかない、と言えば言い過ぎであろうか。
日々の暮らしに追われ、子や孫育てで精いっぱいの一般人とは違う時代のリーダー格の資質をもつ知性派の西部氏であったはずである。その高い希望の峰が、一気に崩れた衝撃を受けたのは、私一人ではないだろう。
現世を生きるリーダーには、やはり、人間の弱さではなく、強さを示してほしかった。その責任と使命感を持って、人生を全うしてほしかったと願うのは言い過ぎであろうか。
戦後70年は平和であったが、敗戦のショックは国民の心に大きな傷を残した。その傷を癒やし、人々に生きる希望を与えるのが西部氏や私たちの責務と思うが、如何(いかが)であろうか。