崇高な精神に感謝の念を
その奥津城(おくつき)は我が寓居(ぐうきょ)から歩いて10分程の近傍(きんぼう)にある。墓柱に「軍神海軍飛行兵曹長 勲七等功五級 大黒繁男之墓」と刻され、側面には戒名「神鷲院忠烈永鑑大居士」が読み取れる。
「軍人の亀鑑たるのみならず、その最期においても万世不滅の好鑑を残せる戦死者」で、「武功抜群の軍人に与えられる金鵄勲章功五級の受賞者」であるということを、この墓は無言で訴えているようだ。
では、我が郷里の軍神である大黒繁男海軍飛行兵曹長のことを戦後73年経た現在、どれ程の人が知っているであろうか。人の世は移ろい、往事は茫々(ぼうぼう)夢の如(ごと)しで、当地においても戦後の世代交番に連れて、軍神の存在そのものが忘れ去られようとしている。
大黒曹長は昭和19年10月25日に、神風特別攻撃隊の第1陣として出撃した「敷島隊」の第5番機の搭乗員として比島沖で敵艦に必死必中の体当たり攻撃を行い散華(さんげ)した。行年20歳であった。予科練の七つボタンの制服姿と白マフラーを首に巻いた飛行服姿の遺影はまだ紅顔の少年の面影を残しており、憐憫(れんびん)の情を禁じ得ない。
戦地から家族に届いた最後の手紙の一文には、「この戦は本当に国を挙げての戦争です。今迄一人も軍人として国に報いて来た人の無かった事、私は子供の頃より残念に思って居りました。今では兄弟二人軍人として御奉公出来るようになりました。私は家の誇りと思って居り、此の上は他人に負けぬ働きをなす事が一番大切です。私も攻撃の時は無念無想、任務完遂に邁進致します」と純粋に殉国の決意を認(したた)めている。
何と健気(けなげ)であろうか。荏苒(じんぜん)として志も立てず、臑(すね)齧(かじ)りの身であった20歳の頃の我が身を振り返ると、まことに忸怩(じくじ)たるものがある。
この1週間、終戦記念特集としてテレビで悲惨な戦争と、その犠牲者という内容で構成された番組ばかりを見せつけられ沈鬱(ちんうつ)且(か)つ痛哭(つうこく)の日を過ごすことになった。確かにあの無謀な戦争を指導した者の責任は万死に値するものがある。
しかし、特攻隊で散華した多くの若者は犠牲者意識だけで出撃したわけではないと思っている。祖国が存亡の関頭に立った時、純真な若者は拱手(きょうしゅ)傍観(ぼうかん)しておれようか。国を想う崇高なる使命感と、止(や)むに止まれぬ愛国心の発露がなせるものであろう。だからこそ尊いのだ。
この特攻隊員の崇高な精神に感謝し、国家国民が尊崇の念を捧(ささ)げ続けることは当然のことであり、そうでなければこれから国家のために尽くす国民はいなくなる。誰が国に殉じようか。
頃来(けいらい)の私心我欲を恣(ほしいまま)にし、不正が蔓延(はびこ)り、不逞(ふてい)の輩(やから)が簇出(そうしゅつ)しておる日本の国を英霊達は嘆いているに違いない。「日本はこんな腐った国になったのか」と。我々はその慨嘆の声を心耳を澄まして聴かねばならない。このまま懺悔(ざんげ)反省なければ日本は衰亡の一途を辿(たど)ることになる。