問われる日本の外交政略

 米国のトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長が12日に史上初の米朝首脳会談を行い、共同声明に署名した。この首脳会談をめぐる動きは朝から刻々と中継で伝えられたので、名状し難い興奮を以(も)ってテレビ画面に刮目(かつもく)した。

 私のような在野の一操觚者(そうこしゃ)としては、この世紀の会談について情報を得る手段は、テレビや新聞報道に因(よ)るしかないことを予(あらかじ)め断っておかねばならないが、会談の成果を謳(うた)った共同声明には失望した。

 「トランプ大統領は北朝鮮に対して安全の保証を提供することを約束した。金正恩委員長は朝鮮半島の完全な非核化に向けた堅固で揺るぎない決意を再確認した」と明記され、あれほど米側が北朝鮮に要求していた肝心要の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」(CVID)という文言が盛り込まれなかったのだ。これは明らかにトランプ外交の失点である。

 ところで、今年になって俄然(がぜん)、外交の檜(ひのき)舞台に登場した金正恩委員長は34歳と聞く。この年齢であれば軍人なら階級は大尉か少佐で、せいぜい第一線の中隊長ぐらいの職分を果たすのが普通であろう。これまでの情報筋による分析も「豪胆な性格で乱暴者だが、頭は悪くはない」といった凡庸なもので、彼の人物評価についてはこの他にもいろいろと臆測され、訝(いぶか)しいものがあった。

 しかし、このところの首脳会談で垣間見る彼の印象はそれらと全く異なるものである。独裁体制の北朝鮮という国家の最高指導者としての器量を感じさせるものがあるのだ。

 それが何かと思い巡らすと、政治学の古典『君主論』(マキアヴェリ著)に帰着する。そこには君主が持つべき「力量」が詳(つまび)らかに述べられ、なるほどと思うところを幾つか抄録してみる。

 「名君は信義を守ることが自分に不利を招く場合、または既に約束した時の動機が失われてしまった場合では、信義を守ることをしないし、守るべきではない」

 「人間は極めて単純で、目先の必要性に甚だ動かされやすいので、騙(だま)そうと思う者にとって騙されるような人間はざらに見つかるものである」

 「君主は口では絶えず平和や信義を唱えているのだが、本当はどちらについても反対なのだ」云々(うんぬん)。

 さて、安倍首相は米朝首脳会談でトランプ大統領が日本人拉致問題を提起したことを受け、金正恩委員長との会談実現に強い意欲を表明した。相手は目的のためには手段を択(えら)ばぬ権謀術数に長けた独裁者だ。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という日本国憲法前文は誠に気高くて尊いが、これでは国民の生命を守れない。「力の伴わぬ正義は無力であり、正義が守られないところでは力が正義とされる」(パスカル『瞑想録』)こそが至言であろう。

 拉致問題解決に向け、日本の外交政略が問われることになる。