米国人とは誰か? 国・社会に愛着あってこそ

「ケイト法」下院通過

 7月4日は米国が建国された記念日だった。そこで米国人とは誰か? 更に日本人とは誰か?―という本質的な問題を考えてみよう。

 米国憲法第2章第1条には、大統領になる条件に関して“出生による米国民である者”と書いてある。また修正第14条によれば、米国民たる条件として、まず“合衆国内で生まれた”者という条件が先に出て来る。つまり米国は、いわゆる「出生地主義」を取っているものと解釈できる。

 もちろん修正第14条にも“または帰化した”者という条件が続く。自ら米国籍を取った人の中には、代々アメリカ人だった人よりも米国を愛する人も多いだろう。また、グローバル化が進んだ現代では、米国で生まれなくとも、人生の多くを米国で過ごし、強く米国的な価値観を持った人も多い。大統領になれる条件を変える話が出ている程である。

 しかし人間は自分が生まれ育った社会に、自然の愛着を持つものである。移民社会の米国でも同じではないか? ましてグローバル化の促進によってますますその意味が大きくなっているようにも思われる。

 ワシントン・タイムズ紙が6月19日に配信した“5.7 Million Noncitizens May Have Cast Illegal Votes”という記事によれば、570万人もの米国籍を持たない人が、2008年に民主党に動員されオバマに投票した可能性があるという。

 また現地時間6月29日、米国下院は「ケイト法」と呼ばれる法案を可決し上院に送った。その内容は不法移民に寛容で何度でも国外退去された人を受け入れたりする所謂(いわゆる)“聖域都市”に対する連邦政府の補助金をカットするものである。“ケイト”とは2年前、聖域都市サンフランシスコで複数回の犯罪前科や不法入国歴のある男に殺害された女性の名前である。

 このように仮に将来的に米国籍を取得したとしても、米国の社会や価値観に愛着を持つとは思えない人々が、米国の領土上に増えているのである。

 そこでトランプ大統領は、ケイト法の成立に力を入れ、渡航禁止令を最高裁が仮容認したことと合わせて、今まで以上にビザ申請や入国審査を厳格化させようとしている。もちろん不正投票防止のための住民登録の検査等も強化しようとしている。

 しかし、それでは不足なのではないかと私は考えている。上記のように米国籍を取得できても米国に愛着を持たなそうな人々が増えている。少なくとも2世―つまり米国の領土上で生まれ育った人にしか被選挙権を与えないくらいの抜本的改革が、今の米国には必要なのではないか? そのような人々であれば最初に述べたように最低限アメリカの社会に愛着を持つようになるのではないか?

日本人とは誰か?

 翻って我が日本は、どうか? 日本でも外国人労働者は、問題になりつつある。合法的に働ける人の枠を増やす政策を日本政府は取ろうとしている。そして米国同様に不法に入国し働いている外国人も増える一方のようである。

 米国の場合と同様、彼らが日本の社会に自然な愛着を持つだろうか? たとえ国籍を取得したとしても…。

 まして日本は民族国家である。米国のような移民国家ではない。憲法の理想に惹かれ集まった人の国ではない。そして日本の民族精神は、論理で説明できない“あいまい”性こそが最も重要な部分なのである。

 そう考えると今後、外国人労働者への国籍付与が必要になった時でも、せめて3世になるまでは被選挙権を与えないくらいに考えるべきではないか? それくらいの世代を掛ければ“あいまい”な日本文化も、身に染み込んで来るかも知れないと思う。(敬称略)