オリンパス社員訴訟 正義貫いたサラリーマン

粘りで勝ち取った和解

 「これで普通のサラリーマンに戻れます。会社の和解案に決して満足しているわけではないが、この辺で手を打ってもいいかなと思い、会社側が出してきた条件を呑むことにしました」

 カメラや内視鏡のメーカーとして知られるオリンパス。そのオリンパスと8年強にわたって裁判争いをしているのが中堅社員の濱田正晴(55)だ。

 そのオリンパスが今年1月末、濱田に大きく譲歩した案を提示してきた。

 その一つが解決金として1100万円の支払いといった案。濱田はそれらの案を見て妥協を決心。ここに8年という長きにわたって裁判を続けてきた、濱田VSオリンパスの抗争は2月18日にピリオドを打つことになったわけである。

 裁判解決後、すぐに彼が起こした行動は渡米で、ニューヨーク州ロングアイランドにある「オリンパス・アメリカ」へと飛んだ。

 当地にはオリンパスの販売拠点があり、90年代末から04年末までの5年間、濱田はその販売会社を拠点に電化製品を売りまくり、優秀セールスマンとして表彰されるほどの活躍ぶりを発揮した。

 裁判から解放されるようになったとき、営業マンとして花を咲かせた、その思い出の場所を見、昔の自分を取り戻そうとしたのであろうか。

 それにしてもなぜ濱田は裁判を起こし、8年にもわたって会社側と闘わなければならなかったのか。

 濱田は1960年の兵庫県生まれ。81年に国立津山高等専門学校・機械工学科を卒業し、日立電子(当時)に入社。85年にオリンパス光学工業(当時)へ転じた。本来は理科系の人間だ。

 その後、米ポラロイド社とジョイントを組み、インスタントカメラの共同開発に乗り出すが、チームに営業面の適任者がなく、濱田がそれを担当。当時は英語も話せない、営業のノウハウもない彼だったが、共同開発事業は成功を収め、予定以上の成果をあげることができ、濱田に「販売する」ことの楽しさを教えたという。

 販売に自信を持った濱田は、そこで思い切って販売部門への異動を志願し、セールス部門へと転じた。そしてその才は前述のようにアメリカで花開く。そして5年間の米国駐在を経て、2004年に帰国する。帰国後はオリンパスイメージング社に配属され、開発者と販売の現場を繋ぐことが、彼の大きな役割となったという。

 翌年10月になると、オリンパス本社のIMS事業部工業用内視鏡部門へ転籍異動となった。この頃、オリンパスは非常事態宣言下にあった。デジタルカメラ事業を含む映像事業が大赤字を出したことで、映像部門を中心に、全社的な人員整理や大規模な人事異動が行われていた。

 いわばオリンパスは非常事態下にあったともいえるわけだが、それが工業用内視鏡などの好調部門へのシフト戦略に、拍車がかかったともいえる。NDT非破壊検査技術などもそうである。

常軌逸したスカウト

 そういった部門を強化するためには人材が必要、そのために同社が取った策というのがスカウトである。同社でその役割を演じていたのが取締役クラスで、しかも常日頃取引をしている、得意先からスカウトしてくるケースが少なくなかった。

 もちろんそれが発覚をして、トラブルになったケースも少なくない。しかし背に腹は代えられず、いろいろな手段を使っての人材確保になり出していたという。

 濱田は上司が取引先の社員を引き抜こうとしているところを見て耐えられず、自社のコンプライアンス窓口に通報したこともある。

 それが上司の不興を買い、営業職から外されるなどの措置を受けたことは1度や2度ではなかった。果たしてこれでいいのだろうか。配転無効確認、続く処遇改善など社を相手取った訴訟が続いた。

 “善が滅びて悪が栄える”とは言わないが、正しき心、強き心は称賛していきたいものである。(敬称略)