道徳教科化を歓迎する 正しい人間関係の一助に
人の行うべき正しい道
小中学校で行われている「道徳の時間が、2018年から『特別の教科』に格上げされると新聞は報じている。これは戦後日本の「学校教育」に欠けていたことを是正するという意味で歓迎すべきことである。
賛否両論あるが、反対している人々の意見は大方、「あれもしなければならない」「こういうことも出てくる」「評価しなければならない」などと、先生方の負担が重くなり面倒なことが多くなるから反対だというような雰囲気である。人生において、新しいこと、初めてのことに直面した時は、人はよく「努力」「勉強」して、これを乗り越えていかなければならないことはごく初歩的な責務であり、当たり前のことだと思われる。
「努力」「勉強」という言葉自体に、ある種の精神的・肉体的緊張を強いられるニュアンスが含まれていることは事実である。
我々は生まれ、生きていることは天然の生命界において、のっぴきならぬ現実である。人間が生きていく上にも一般の自然現象と同じく、「人の踏み行うべき正しい道」みたいな「倫理道徳」の法則、傾向、流れ、習いというものがあるはずだ。
「ヒト」は「サル目の動物。現存種はホモ・サピエンス種で、人類またその一員としての個々人」と辞書には解説されている。また「ヒト」は「倫理道徳」を知り実行してきたから、ただの動物である「ヒト」から「人」になり、「良知・良心」という「神」に近い存在にまで進化したのだと言われる。
そこで、昔から「人の踏み行うべき正しい道」として先人たちが探り求め、説かれてきたものは多い。その中から比較的日本人に馴染(なじ)みの深い、自然で、また社会科学的な要素が多い・日本神道・儒教・武士道・仏教・六諭などの古典から、不適応になった部分は省き現在の社会生活に適応すると思われる「共通項」――例えば殺すな・盗むな・姦淫するな・嘘(うそ)をつくな・酒を飲むな・父母を敬え・自分にして欲しくないことは他人にするな・清く・明るく・正しく・素直に――などを抽出し、統合してはどうか。
「道徳」とは所詮、「自分とほかの人」との関係を指すのであり、具体的には自分と親・兄弟・友・師・目上の人・目下の人との、正しい人間関係を言うのである。だから何も新しく考えて、悩ましく、むつかしくする必要はない。前記の古典等から、現在に適応する「共通項」を徹底抽出し「道徳教育」の基本とすることが、大切なことだと思う。「道徳教育」は、何も古臭(ふるくさ)いこと、忌むべきこと、避けるべきことではない。自然の被造物として他の動植物同様、「人間が踏み行うべき道」所謂「人間道」として知り、実践する現在に差し迫って必要な課題なのである。
伝統の中から選り学べ
生命原理が示す、相互浸透・融合・融和・自己犠牲に添うて学童たちが、より明るく・より大きく・より広く・より高いものを目指して努力するよう指導するとよい。
新人ホモ・サピエンスが誕生して10万年以上と言われる長い歴史の中で、連綿(れんめん)と繰り返され、培われてきた人知の中から拾い上げた「人の踏むべき正しい道」として説かれてきた伝統の中から選(すぐ)り学ぶのである。「温故知新」と言う言葉で親しまれるこのことを、今ここで再び温めて提示するものなのである。
安倍総理が叫ぶ、戦後レジーム(社会構造)から脱却するための重要な柱の一つである。国民の一人として全力を挙げて協力する考えである。