歴史や民俗から学ぶもの 神社の神事に畏怖畏敬を

政治や経済で汚すな

 東京浅草・鷲(おおとり)神社の「酉の市」がニュースになっている。この話題を耳にすると、私たち道産子もなぜか暮れの準備を意識する。

 酉の市は、そもそもは全国各地にある鷲神社の由緒正しき年中行事で、11月の酉の日に行われる祭りだ。今では多くの神社で開催され、縁起物の熊手を求め多くの人が押しかける。景気の浮揚に命運がかかる消費税値上げ問題を抱え、関係者のみならず私たち国民も、今年の熊手の売れ行きがいつの年にもまして気になるところだ。

 ところで今年は、こうした神社の祭りを舞台とする気になるニュースがいくつかあった。多額の借入金の使途に「熊手を買った」として顰蹙(ひんしゅく)を買い、党首を辞任したみんなの党の渡辺喜美氏。民主党の菊田真紀子衆院議員は、宮沢洋一経産大臣の「SMバー」問題に苦言を呈したところ、ネット上で「逆差別」「ヘイトスピーチ」だと批判された上に、男根を模したご神体にまたがる自身の写真をネット上に流された。

 菊田氏が指摘を受けたのは、新潟県長岡市のほだれ神社の奇祭「ほだれ祭」での一コマ。この祭りは、巨大な男根をかたどったご神体(長さ2・2㍍、重さ約600㌔)に「初嫁」をまたがらせ、子宝や夫婦円満を祈願する霊験あらたかな神事だ。ただ、指摘によれば、初嫁ではない菊田氏にはまたがる権利がないらしい。

 ネット上の意見は「いやらしい!」「縄がついてるからSMでは?」という点に終始する。神社での神事が、低俗あるいは卑猥(ひわい)であるかのような目で見られているのである。菊田氏から毅然とした弁明は聞かれなかった。渡辺氏の熊手についても同様であり、自らの不明を、熊手のせいにしているとしか思えない。しかし、私が気になるのは、そういうことではない。私としては、神事を執り行う場所であるはずの神社が、いつの間にか政治や経済によって利用され、汚されている点が気になっている。

 一方、国内だけでなく、世界的に政治的関心が注がれているのが靖国神社だ。中国首脳と安倍首相の会談に、関係者が薄氷を踏む思いで固唾をのんだのも、靖国参拝問題が大きなネックになっていたからだ。「国家神道」の影響で、今も神社信仰は世界的には極めてネガティブに捉えられている。それは、出雲大社の禰宜(ねぎ)と皇族との婚姻のニュースでも感じられる。世界は、単なる芸能ニュースとしてしか見ていない。

 こうして考えてみると、かつて私たちの暮らしや気持ちに深く根付いていた、目には見えない「ナニモノカ」に対する思いが徐々に希薄になっていることを感じる。縄文時代の土偶を評して、國學院大學名誉教授・小林達雄氏は、目には見えない「ナニモノカ」といった。そこには、あらゆる不安や願い事にすがるべき何かという、畏怖・畏敬の念が込められている。畏怖・畏敬の念は、宗教や哲学、科学的合理性を必要としない縄文社会において育まれた「智恵」のような存在だった。そして、神社にまつわる信仰は、そうした縄文時代以来の「智恵」を受け継いでいると考えられる。

「智恵」として見直しを

 縄文人の遺伝子をどれだけ持つかは別として、日本列島に暮らす多くの日本人には、「ご利益」とか「ナニモノカ」に敏感に反応する心情があったはずだ。それは、地域に根付いた寺社、そして地域から集められた民俗資料をひもとくことでいくつもの納得が得られるはずである。

 全国には、数千の寺社や博物館・資料館があるが、これまで、考古資料や民俗資料、そして神楽や能、相撲といった伝統芸能や神事は、発信する側も見学する側も、古い時代の生活道具や遊びとしてしか見てこなかった。そういったものを、そろそろ日本列島に脈々と受け継がれた「智恵」として見直す時期に来ているように思う。政治や経済に汚されることのない畏怖・畏敬の念を取り戻すためにも。