東京湾海水浴場復活プロジェクト 苦節30年、甦った!僕らの海
フリージャーナリス 宮本 惇夫
“里海”だった葛西の海
連日猛暑に襲われ、悲鳴と噴き出す汗との闘いに苦しめられた平成25年(2013年)の夏-。
その猛暑のなかで、子供たちの歓声が響き渡り、大勢の人出で賑わった珍しい海がある。
東京江戸川区の葛西海浜公園の西なぎさで、連日、人出が押し寄せ、7月15日~8月25日までの1カ月弱で、約38,000人の海水浴客が押し掛けた。
東京湾広しといえども、東京都内の海岸で、海水浴ができる海岸は、この西なぎさだけ。水を弾かせる子供たちの楽しそうな顔、見守る大人たちの喜びの顔、そんな光景がなぎさいっぱいに広がる。
長い間、東京湾は一部の地域を除き、水質汚染によって遊泳禁止の地区に指定されてきた。それがやっと、ほんの一部ではあるが、昔の泳げる海、海水浴場としての遊び場を取り戻しつつある。
しかしその遊び場を取り戻すまでには、長い長い戦いを繰り広げねばならなかった。
地下鉄東西線は西葛西駅から東京湾方向に歩いて12~13分、住宅街の一角に関口美術館がある。館主は一級建築士の関口雄三。彼こそが、この“西なぎさ”復活プロジェクトの仕掛け人であり、葛西に再び海を取り戻した男といえる。
彼は葛西の海を“里海”と呼ぶが、子供の頃、泳いだり魚や貝を採ったり、潮が引けば空地に変わるそこで野球をやって遊ぶ。
また半農半漁の関口家では、父親が朝早く海苔採りに海へ出て、帰ってくれば祖母と母親が、その海苔を小屋で漉き、台いすに並べて天日干し。生活と直結していたのが葛西の海だった。
その海が戦後の高度成長政策の中で汚染され、毀され埋め立てられていった。かつて遊んだ海からは、頭が二つある奇形の魚や蛙が見つかる。漁師は漁師で高い漁業権に魅かれて、大事な漁業権を手放していく。
こうしていつしか豊穣の海は、汚染と公害の海へと変わっていったわけだが、その変化に疑問と怒りを感じ、立ち上がったのが日本大学芸術学部を出て建築士になっていた関口雄三だった。
「30歳の頃だったかな。シルクロードを旅してカルチャーショックを受けた。貧しい身なりの子供たちが、イキイキとして畑仕事に精出し、アラーの神の前で真摯なお祈りを見せる。自然とともに生きている彼らからは、貧しさなど伝わってこない。それに比べ日本の子供たちは遊び場である海からも弾き出されている。果たしてこれでいいのだろうか」
牡蠣を使って海水浄化
そんな問題意識が関口の心を捉え、彼に行動を促す。そして始めたのが東京湾の再生運動だった。1977年、地元の都議会議員を動かし、東京湾憲章を採択。それが江戸川区の臨海部に、葛西臨海公園と葛西海浜公園の整備につながっていく。
また2001年には任意団体(現NPO)であるが、「ふるさと東京を考える実行委員会」を発足させ、本格的に東京湾に海水浴場を復活させる活動が始まった。
海水浴場復活に向けて大きな障害となったのは水質問題。水質が一定の水準をクリアしてなければ、海水浴場として認めてもらえない。そこで取り組んだのがマリンガーデニングの手法。二枚貝、オイスター(牡蠣)を使って海水浄化をする手法である。
それら努力が認められ、昨年は2回。今年は7月15日から8月末までの土、日曜に限って海水浴が認められたが、東京都区内での海水浴としては50年ぶりの復活という。
豊かさとは何か-問い続けて30年。それは“泳げる海”として答えが返ってきた。長くもあり短くもあったといえるが、凄まじい執念と努力であったことは確かだ。
(敬称略)