「吉田調書」記事は原発所員「貶めず」と「朝ナマ」で強弁した朝日OB
◆江田氏が見たい現実
朝日新聞社の木村伊量(ただかず)社長が、いわゆる「吉田証言」と「吉田調書」に関する二つの誤報問題で謝罪会見を行ってから1カ月が経過した。テレビの報道・討論番組は過去数カ月間、朝日の報道に関する問題を何度も取り上げ、ジャーナリストや政治家らがそれぞれ意見を述べたが、こうした番組を今振り返ると、一つの格言が頭に浮かんでくる。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」。ローマの英雄カエサル(シーザー)の言葉だ。
例えば、日韓関係をテーマにした5月31日放送の「朝まで生テレビ!」(テレビ朝日)。朝日が「所長命令に違反 原発撤退 政府事故調の『吉田調書』入手」というスクープ記事を掲載してから10日後の放送だから、この時点では朝日の記事が誤報だったとの認識はまだ一般には広まっていなかった。
福島第1原発の所員の9割が命令に違反して「現場離脱」した、と朝日が報じて間もなかったこと、その前月に韓国でセウォル号沈没事故が起きていたことが重なって、のっけから議論の中心は職業倫理になった。その際、2日前に福島第2原発に行って、東電関係者を取材したジャーナリストの堀潤氏は、所員は第2原発に退いて態勢を立て直したのであって、職場放棄して逃げたのではない、という趣旨の発言を行った。
ところが、江田五月・民主党最高顧問は「第1原発の中にも線量の低い場所はあったのに、そこを離れて第2原発にいっちゃった。やはりそれでは逃げたと言わざるをえない」と、堀氏の見方を否定した。自らの思想信条に近い“大新聞”の記事なら疑わないが、関係者に直接取材して「逃げたのではない」としたジャーナリストの言葉は考慮に値しないと考えたのだろう。
江田氏と言えば、脱原発派の政治家。東電批判の材料になる「現実」は見るが、それに反する現実からは目を背けた例と言える。
◆捏造記事弁護の神経
「激論!“慰安婦問題”とメディアの責任」をテーマにした9月27日放送の同番組では、自らに都合の悪い現実には目を向けないだけでなく、吉田調書に関する誤報を、偏った解釈で糊塗(こと)する朝日OBの発言もあった。
元朝日新聞編集委員の山田厚史氏が「あの記事は何を書いているのかというと、『逃げた』とか、この人(原発所員)をおとしめたのではなくて、原発は事故が起きた時に、指揮命令系統がぐちゃぐちゃになっちゃって……それと反した形の行動が起きてしまうということを書いただけ」と擁護したのだ。
この発言に、一瞬わが耳を疑った。朝日の記事のリードには「吉田氏の待機命令に違反し10㌔南の福島第二原発へ撤退していた……東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた」とある。「解説」にも「9割の所員が待機命令に違反して撤退した」と書いている。
朝日の社長がこの記事の誤りを認めて取り消したのは、番組放送の2週間前。古巣を弁護したくなるのは人情とはいえ、「命令違反による現場離脱」と捏造(ねつぞう)した記事について、この期に及んで「所員をおとしめたのではない」と、強弁する神経は通常の人間の理解力を超えている。
山田氏の発言からも、見たくない現実は見ないという人間の愚かなサガを見て取れるが、一般人ならまだしも、ジャーナリズムを担うプロとしてはその資質が問われる深刻な問題だろう。これは山田氏だけに見られる傾向ではない。出演者の発言がかみ合わずに議論が深まらない討論番組が多いのは、それぞれが自分の見たい現実しか見ないで発言するからだ。これは朝日の誤報の背景にある日本のジャーナリズムの問題点でもある。
◆御都合主義に自問を
9月14日放送の「サンデーモーニング」(TBS)で、評論家の大宅映子氏がこんなことを言っていた。
「メディアは報道の自由という名の下に特権と義務を同時に与えられている。われわれに真実を伝えるという義務。それが自分の都合のいいところを切り取って載せる。間違いと分かっても訂正しない…今は朝日新聞だけの問題になって、それを叩いてメディアが盛り上がっている。それを見ると、日本のジャーナリズムの危機」
ジャーナリズムに関わるすべての人間が肝に銘じなければならない言葉だろう。
(森田清策)