漱石作品を現代社会に照射し読み解く姜尚中氏アエラ記事に違和感

◆『三四郎』は都市論か

 文豪・夏目漱石の人となりや作品を紹介しながら、若者の生き方などを提示した「悩む力」などの作品がある政治学者の姜尚中氏が、アエラ10月13日号で「我がこころの漱石を旅する/姜尚中が行く熊本文学紀行」を載せている(ライターは矢内裕子さん)。

 文学作品の読み方は、もちろん各人の自由でありそれについてとやかく言うことはないのだが、姜氏の、漱石作品をもって現代社会を照射し、論じ批判したりするあり方にはどうも違和感がある。例えば、今回の記事の中で姜氏は次のように言う。

 「『三四郎』は日本初の教養小説だと言われていますが、東京の都市論としても読めます。100年前の人々は、東京をどのような街にしようと考えていたのか。2011年の震災を経て、2回目のオリンピックに向かって、東京はどう変わるべきなのか。『三四郎』を読みなおすことでヒントが見つかるのではないでしょうか」と。

 名作の世界にどっぷりつかって、味わい尽くしたその読後感として、果たしてそうかな、と思う。幸田露伴などの作品も同じだが、明治という時代に生きた人間の造形を見事に浮き彫りにした、堪能した――そういった読み方で十分ではなかろうか。

 さて、アエラの記事のリード文は「『こころ』の新聞再連載などをきっかけに、夏目漱石が注目されている。100年前の作品が今なぜ私たちの心を打つのか。若き漱石が滞在し、作品の舞台にもなった熊本を同県出身の姜尚中さんとともに歩き、考えた」。姜氏が阿蘇山の火口周辺や熊本市の熊本城近くに保存されている漱石の熊本時代の旧居を訪れ、その折の感慨をライターがフォローしている。

◆一面的でないテーマ

 阿蘇から熊本市内に向かう間だろうか、漱石作品との出会いや魅力を聞かれ、姜さんは「文明が進むほど、人間の孤独が増し、救われ難くなっていくことに、100年前の漱石は気づいていました。国民作家と呼ばれますが、明治新政府がめざしたような、青雲の志を漱石は書いていない。作品のグレイッシュな雰囲気は、現代の私たちに驚くほど通じています。漱石作品、とりわけ『こころ』は読みなおすたびに、その炯眼(けいがん)には驚かされます」と言う。

 しかし長編小説「三四郎」は立身出世を目指し帝大入学のため上京してきた地方出身の三四郎が主人公だ。東京と地方をつなぐ交通網の発達、都市の隆盛など、当時の社会的気運を反映し造形された人物像だ。その中で展開する三四郎の東京での人間関係も、当時の庶民の日常とはいささか異なっている。姜氏は「明治新政府がめざしたような、青雲の志を漱石は書いていない」と言うが、社会的リーダーを目指す青年たちの心の内を三四郎は思い切り代弁している。

 漱石の作品群を見ると、そのテーマが多彩で、漱石は日ごろ小説の題材を蓄える引き出しを多くもっていたことがうかがえる。その中でも異色なのは、実在の人物の経験を素材としたルポルタージュ的作品「坑夫」だろう。これが面白い。

 主人公は裕福な家に生まれた19才の青年。社会的地位のある親の下で何不自由なく育った坊ちゃんだが、ある事情から銅山へ連れられて行き、坑内でインテリの坑夫に出会って彼のようになろうと決心する……。

 まず回想記の体裁が新鮮で、青年の心がビビッドに伝わってきて時代を超えた若者の心理を知ることができる。漱石の代表作としてほとんど名が挙がらないが、姜氏が漱石の新しい読み方を追求するなら、ぜひこういった作品を紹介してほしいものだ。

◆朝日新聞へ応援歌?

 漱石は明治22(1889)年、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる伊予(愛媛県)の俳人・正岡子規と初めて出会う。記事では「漱石自身阿蘇登山をした際の句といえば『灰に濡れて立つや薄と萩の中』『草山に馬放ちけり秋の空』などがある。/こうした正岡子規ゆずりの近代俳句もまた、漱石が熊本へもたらした新しい文化だった」とサラリと流している。熊本の旅だから仕方ないが、漱石の熊本時代の“豊作”に対し、子規との交流がもたらした影響をもっと強調してほしかった。

 記事は、誌面に限りがあるということからか、熊本紀行を通しての漱石へのアプローチに恣意(しい)的な面が見られる。朝日新聞が漱石作品の再連載を行っており、総じてその応援歌になってしまっている。

(片上晴彦)