原告陳述書に「監禁」
「青春を返せ裁判」法廷証言から(12)
これまで、原告が被告側代理人の反対尋問で「拉致監禁」されたという証言を行い、その事実が明らかになった例を挙げてきた。だが中には、すでに脱会の経緯を綴った原告の陳述書の段階から、拉致監禁の体験を明白にしたケースもある。
平成5(1993)年、第2次提訴の1人、浜田静子さん(仮名)が11年5月6日に作成した陳述書の「保護」「反対派牧師」の項を抜粋する(実名部分は伏せ字に修正)。
○保護
九二年(編注・平成4年。提訴の1年前)四月六日。忘れもしないこの日は私が保護された日である。妹の嫁ぎ先である△△家の、お父さん、お母さんと私達家族とで食事をする事になっていた。△△さんご夫妻はとても感じのいい方達で、以前にも家族ぐるみで食事した事もあったので楽しみにしていた。家で両親だけと話すよりいろいろな話題が出てたのしかったし、統一協会や現在の生活に関する質問などもされないので気楽だった。
(札幌市)西二八丁目の地下鉄駅で待ち合わせた。そこから車でステーキのおいしい店に案内された。食事の時間は楽しく過ぎた。それから地下鉄まで乗せてもらう為に車に乗った。私の両脇に父と母が座ったのであれっと思った。こういう配置で座った事はなかった。今日は泊まって行かないんだと母に言ったが返他(ママ)がなかった。
妹の夫である□□君が運転する車は実家の方に真っ直ぐ向かっていた。両親を降ろしてから地下鉄まで乗せてもらえばいいと思って黙っていた。思い返して見ると、その時は何となく皆が無口で変だった。実家の近くの知らないマンションの一つに車が入っていこうとした。「どうしてここに行くの。ここは何なの」と私が聞いた時、□□君の顔がすごく緊張している事に気が付いてはっとした。これは「監禁」だ。(中略)
車のシートにしがみついていたのを下ろされてマンションの入口まで連れて行かれた。何とか腕を振りほどいて、走って逃げようとしたのだが、皆が必死になって私を押さえ付けようとした。妹が涙を流しながら、こうするしかなかったんだと言っていた。父親がなおも何かを説明していた。父さんはとにかく決心したんだときっぱりと何度も言っていた事しか覚えていない。
皆の顔が、とても自分の身内とは思えないような恐ろしい顔に見えた。マンションの入り口に千葉の伯父さんが立っているのが分かった。続いて△△さんご夫妻、が入って来た。この人達も何食わぬ顔をしてグルだったのだと思った時目の前が真っ暗になった。
エレベーターがなかなか降りて来なかった。エレベーターから男の人が二人降りて来たので私は必死に助けを求めたが不思議そうな顔をしながら行ってしまった。エレベーターのドアが開くと年配の女性が立っていた。この人は誰なのと叫んでから、旭川の伯母さんである事に気が付いた。(中略)恐ろしい圧迫感と、「監禁」された事に対する怒りで気が狂いそうだった。
(この項続く)
(「宗教の自由」取材班)