後藤徹氏監禁のマンションに
被害者の体験と目撃現場(17)
脱会屋の宮村峻氏は週2、3回、監禁部屋に姿を見せ、毎回1、2時間、腰を据えて舞さんに話をした。しかし、舞さんは口を開かないし、調子を合わせる振りなど決してしなかった。そのため説得らしい説得はできずにいた。協会の悪口をさんざん並べ立てたが、舞さんが相手にしない。その後、宮村氏はぴたりと来なくなった。
2、3カ月が経つと、両親から「他に部屋があるからそっちに移る」と言われた。移動の際、両親と弟それに数人の親戚が車に同乗したが、運転していたのは見知らぬ人間だった。
後に元信者の秋葉という人だとわかったが、舞さんは、自分を監禁し続けようとするうかがい知れないグループの力と事情を見せつけられたようで、家族に対する不信はさらに深まり怖くなった。
移された先は、車で10分ほどの距離の所にある荻窪フラワーホーム(杉並区荻窪)というマンション5階の一室だった。同時期、ここの804号室には12年5カ月にも及ぶ監禁を強いられた後藤徹氏がいた。後藤氏も舞さんが監禁された所も、全く同じ間取りの2LDKだった。
舞さんは、ベランダに面した部屋で生活するよう強いられた。部屋から隣のトイレまでは行くことができたが、その先に行くことを禁じられた。
玄関ドアは内側から厳重に施錠され、両親が持っていたカギがないと開けられないようになっていた。舞さんの居たのは最も奥まった部屋で、そこからは玄関を鍵で開閉する際のかちゃかちゃという音がかすかに聞こえるだけだった。
ベランダ側には人の背ほどの窓があったが、ここからは外光がいっさい入らず真っ暗だった。風が吹いたり雨が降れば、その気配なり音がするだろうに、それすら聞こえなかったほどに音も遮断されていた。おそらくベランダに何か物を積み上げて、意図的に音や光を断絶していたのだろう。雨戸も閉まって、固定された障子がはめ込まれ、そこからは外気すらも入ってこないのでは、と思うほどであった。
部屋の側面の一方には、腰から上の高さにアルミサッシの窓があった。だが、そこには内から外、外から内が見えないよう、特殊な色付きのセロハンのようなものが貼られていた。それでも、わずかながらそこから外光が入ってきた。
「もう逃げられないんだ」と、諦めざるを得ないような“効果”を演出していたんだと、今にして舞さんは思う。逃げられないんだと心が折れてしまえば、説得されやすい。逃げられる、あるいは誰かが助けに来てくれるという希望があれば、忍耐も続けられる力が得られるはずだ。
舞さんが不満げに窓に近づいたり、恨めしそうに部屋を仕切っているカーテンを見つめたりすると、家族は不機嫌になった。「そんなことをする必要はない」と怒鳴ったりもした。
(「宗教の自由」取材班)