娘に頼りきる母親
被害者の体験と目撃現場(2)
「米国拉致監禁被害者の会」の要請で昨年5月に訪米した山田舞さんは、同会のメンバーらとともにワシントンの下院議員事務所を訪れた。国務省国際宗教自由事務局のビクトリア・アルバラードさんや同東アジア人権担当クレア・デービスロング氏ら同省関係者4人と面会。
彼らを前に、自身の拉致監禁の体験をそのまま話した。英語は大学までに勉強した程度で、ぶっつけ本番だったが、5~6分の持ち時間を精いっぱい訴えた。
すでにアルバラードさんらは、拉致監禁問題の概要を承知していたが、目の前の被害者が語る生の声に、大きなショックを受けたようだ。
慰めるように舞さんをハグし、問題解決のために積極的に働くことを約束した。
舞さんは今、韓国語の邦訳、日本語の韓国語翻訳の仕事をしながら、拉致監禁被害者たちのケアなどにも努めている。
山田舞さんは東京都杉並区出身。酒、醤油の卸会社に勤める父親(2008年他界)と母親、3歳年下の弟の4人家族の中で育った。酒の入らないときは物静かなサラリーマンの父親だが、ほとんど毎日のように晩酌し、その量も時に一升(約1・8リットル)を超えた。しばしば酒の勢いで、日ごろの鬱憤、ストレスを妻子にぶつけることで発散した。
家族は皆、父親にいつ怒鳴られるかと、身を縮め緊張を強いられる毎日だった。
そのホコ先は、特に妻に対して向き、気に食わなければ、理屈抜きの怒りや不満をぶつけてきた。舞さんや弟は、子供心に、何とか母親を守りたい、支えなければいけないと健気に思っていたが、目の前の父親が恐かった。
結局、何もなす術がなかった。父親を中心とした家族、と言うと聞こえはいいが、父親の感情の行き先を絶えず気にし、その気兼ねばかりしていた生活は息苦しいものだった。
舞さんが中学2、3年になると、母親は舞さんを頼りにしてきた。夫に対する愚痴や不満を漏らしたり、悩みがあれば相談を持ちかけたりするようになった。それは、舞さんにとってかなりの負担となった。
しっかり者の舞さんだったが、母親に対し「父のことでなく、私たちのことにも関心を持ってほしい。子供たちの方を向いてほしい」と願ったのは自然な感情だった。
舞さんは思春期真っ最中だったから、悩みもあった。
しかし、相談し、それに応えてくれそうな家庭環境ではなかったと言う。淋しさが募り、父親に反発する思いが増し、父親を無視し始めるようになった。父親だけでなく、母親に対しても、どうしようもなく反発的な感情を持つのを抑えられなくなった。
両親との間にわだかまりが生まれ、心情的な距離ができてしまい、大学を受験する年頃になっても、その溝を埋めることができなかった。両親は、娘がどこの大学を受験したいのか、しようとしているのかさえ承知していなかった。
(「宗教の自由」取材班)