ジャーナリズムは日々の記録
評論家 大藏雄之助
今から百年近く前にアメリカの著名なジャーナリストのウォルター・リップマンが書いた“Public Opinion”(世論)という本に次のようなエピソードがある。
十九世紀の終わりごろから大西洋のあたたかい島にヨーロッパの豊かな高齢者たちが暮らしていた。まだラジオもなかった時代である。補給船が半月に一度ぐらいの割合で生活物資や新聞・雑誌を運んできた。波止場で待ちかねていて新聞を受けとった人々の笑顔が消えた。大きな見出しが戦争の勃発を報じていた。その日まで仲良く暮らしていた住民が二派に分かれた。お互いに口もきかなくなった。実は戦争は二週間以上も前に始まっていたが、ここでは平和が続いていたのだ。
私は昭和三十二年に大学院を出て、思いもよらず民間放送局に就職した。その経過と職場状況はとても面白いのだが、ここには書く余裕がない。とにかく、ニュースの現場に配属されてからすぐに、新聞はやがてつぶれるだろうと思った。放送は郵政省(当時)が定めた通りに電波を出せば、あとは文字通り「送りっ放し」で、受信は受け手が用意してくれる。新聞は集めた記事を印刷して購読者の一軒一軒に配達しなければならない。しかし、私が新聞の将来を暗いと考えたのは、こうした流通の技術的な複雑さのためではない。
六十年前の三大新聞は政治的にも社会的にも巨大な影響力を持っており、田中角栄郵政大臣と取引をして民放を系列化することに成功した。そして日常の記者会見では新聞が優先、大きな事件の報道では解禁時間を設けて、ラジオ・テレビの速報を制限した。
そのころアメリカでは、大統領の演説なども可能な限り生中継であり、新聞記者はテレビの前でメモを取っていた。第一報では電波にかなわないことを認めて、新聞はニュースの分析と解説、絵になりにくい事象を文章の力で詳しく描くという調査報道に移行していた。
植物でも動物でも環境の変化に対応できなければ死滅する。それに適応しない新聞は絶滅危惧種であった。
それでも二十世紀中はマスメディアが活躍する余地があったが、その後の電子系の技術の発達は驚異的であり、免許事業の放送は、キャスターの一言で大統領にヴェトナム戦争撤退を決意させたほどのアメリカのテレビにおいてさえもニュースは見る影もなく、現在はエンターテインメント媒体となっている。一方でタイムズ・スクエアに君臨していたニューヨーク・タイムズは本社ビルを売却して、そのテナントとなっていて、遠からず電子ニュースの課金のみで生き残る決意らしい。
最近の調査によれば、わが国の平均的な家庭で一日に新聞に費やす時間はテレビ欄確認の三分間だという。だが識者は活字の一覧性と記録性を尊重してもっと時間を費やして読んでいる。ジャーナリズムとは日々の記録である。その責任を認識すれば、新聞は存続の意義がある。