ローマ法王が祈りながら眠る時


 フランシスコ法王は祈りながらよく眠ってしまうという。法王の日常生活を世話している関係者の話ではない。フランシスコ法王本人が若者向け聖書「Youcat」の前文に書いた内容だ。法王は「神にとって、自分は息子だ。親子の関係だから問題はないよ」と説明しているという。

 息子が祈りながらこっくりこっくり船を漕ぎ出した時、神は「何をしているのか。目を覚まして祈りなさい」と言われないことをフランシスコ法王は知っているのだろう。神への絶対的信頼があれば、そのように考えることができるわけだ。旧約時代の戒律で生きる信仰生活ではなく、神と息子の親子関係があるからだろう。

 ところで、ローマ法王が祈りながら眠ったのは南米出身のフランシスコ法王が初めてではない。前法王のべネディクト16世(在位2005年4月~13年2月)も在位後半、祈りながら眠ってしまうことがよくあった。

 考えてほしい。べネディクト16世が法王に就任した時は既に78歳だった。そして退位表明する85歳までその聖職を全うした。べネディクト16世の実兄(ゲオルク)は実弟がローマ法王に選出されと聞いた時、「弟は法王の激務をこなせない」とその健康を心配したほどだ。

 2013年3月のコンクラーベ(法王選出会)で第266代のローマ法王に選出されたアルゼンチン・ブエノスアイレスのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ大司教が、自身に付けられる法王名を“貧者の聖人”と呼ばれた「アッシジのフランチェスコ」を選んだ時、彼は既に76歳だった。フランシスコ法王もべネディクト16世も高齢者だ。疲れたとしても不思議ではないし、どこか支障が出るものだ。フランシスコ法王は祈る時、「膝が痛くて座ることができないので、祈りの時は椅子に座る」と述べている。

 ところで、フランシスコ法王は、「祈れば、神のプレゼンスを身近に感じることもあるが、祈っても神を感じないことも多くある、それは空虚だ、空虚だよ。その時は忍耐強く待つだけだ」と告白している。独文のほうが法王の真意が伝わるように感じるから、紹介する。
 „Ich fuhle dann nichts, nur Leere, Leere, Leere‘。

 フランシスコ法王の祈りの「空虚さ」を理解できるのはあの修道女テレサではないか。「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に親しまれたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。その修道女テレサの生前の書簡が明らかになったことがある。その内容が公表された時、世界は大きなショックを受けた。

 修道女テレサは、「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空虚だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白し、「孤独で暗闇の中に生きている」と嘆いていたのだ(「マザー・テレサの苦悩」2007年8月28日参考)。あのマザー・テレサ―が生前、フランシスコ法王と同じように、神の不在感と空虚さに悩まされていたのだ。

 両者に違いがあるとすれば、フランシスコ法王は「空虚さ」を平静心で受け入れてきたのかもしれない。どちらが立派という問題ではない。両者とも貧者の救済をライフ・テーマとして歩んできた聖職者だ。それゆえに、悩まざるを得なかったのだろう。ちなみに、「眠り法王」を弁解するつもりはないが、祈りは瞑想に近く、瞑想は睡眠に似ているという。

(ウィーン在住)