戦後70年、「負の歴史」なお ドイツで元SS隊員の公判始まる

 ドイツ北部のリューネブルクの地方裁判所で21日、元ナチス親衛隊(SS)隊員のオスカー・グレーニング被告(93)に対する公判が始まった。同被告はアウシュビッツ強制収容所でナチス・ドイツ軍の約30万件の戦争犯罪に関与した責任が問われている。アウシュビッツ強制収容所関連のナチス・ドイツ軍関係者の最後の裁判とみられる同公判に世界から多数のジャーナリストがその行方を追っている。(ウィーン・小川 敏)

アウシュビッツの簿記係

間接関与でも禁錮3年か

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21日、ドイツ北部リューネブルクの裁判所に出廷した、アウシュビッツ強制収容所の元簿記係オスカー・グレーニング被告(AFP=時事)

 グレーニング被告は公判初日、「1942年、アウシュビッツ収容所に到着した直後、多くのユダヤ人がガス室で殺害されていることを知った。どうか許してほしい」と告白し、「私の罪に対する刑罰は裁判所が決定することだ」と述べた。同地裁には、アウシュビッツ強制収容所の生存者やその家族など約60人が詰め掛け、裁判の行方を見守った。

 独週刊誌シュピーゲルによると、アウシュビッツ収容所で簿記帳簿係だった同被告は、「ある夜、息ができず苦しむ声が聞こえて来た。ガス室で死と戦う人間のあえぐ叫び声だった。数分後、叫び声は絶えた。その夜、その叫び声を忘れようとして酒を多く飲んだが、忘れることはできなかった。70年の年月が過ぎても、その夜の叫び声を忘れることはできない」と述べている。同被告はハンガリーから護送されてきたユダヤ人の荷物や金銭を他の親衛隊員などに分け与えたりしたという。

 ハノーバー検察当局は15分余りの起訴状朗読の中で、「被告は自身の行為を過小評価していた。その責任分担は限られていたとしても 戦争犯罪を支援した事実は変わらない」と述べた。それに対し、被告は全ての罪状を認めた。

 グレーニング被告は終戦後、戦争捕虜として英国の刑務所に収容された後、故郷のドイツに戻り、家庭を持って妻と子供と共に一般の国民として生きていたが、1980年代半ばになって自身の過去を明らかにした。アウシュビッツ収容所のガス室の存在を否定する者に対して、同被告は裁判でガス室の実態を証言してきた。

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ワルシャワのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)跡地の記念碑前でひざまずく西独のブラント首相(当時)=1970年12月7日(AFP=時事)

 フランクフルト検察側は85年、アウシュビッツ収容所で働いていた同被告に対し、「具体的な犯罪行為を実証できない」として起訴をいったん断念したが、ドイツの刑法が修正され、戦争犯罪に直接関与しなかった場合でも起訴が可能となった。

 2011年5月、ミュンヘン地裁がナチス・ドイツ軍のソビボル強制収容所の元看守だったジョン・デムヤンユク被告に対し、禁錮5年の判決を下している(同被告は12年3月、91歳で亡くなった)。これを受け、グレーニング被告の起訴の道が開かれたわけだ。グレーニング被告が有罪判決を受けた場合、少なくとも3年の禁錮刑が予想されている。公判は7月27日まで続く予定だ。

 同被告は過去、独週刊誌シュピーゲルとのインタビューで、「自分は戦争犯罪を直接は犯していないが、ナチス・ドイツ軍に関わったことをユダヤ民族に許しを請いたい」と述べる一方、「戦争犯罪に直接関わったことがない者に法的刑罰を加えることは納得できない」と不満を吐露している。

 ナチス・ドイツ軍の蛮行から70年以上が過ぎた。ナチスの戦争犯罪に直接関与した人間は既に存在しない。そして、ジョン・デムヤンユク被告やグレーニング被告のように、ナチス戦争犯罪には直接関与しなかったが、「その犯罪現場にいた」という理由から、その責任が問われてきた。ギリシャから戦時賠償要求が飛び出すなど、戦後70年を迎えたが、ドイツは今なお、その「負の歴史」の幕を閉じることができないでいるのだ。