画家ヒトラーの道を拒んだ「歴史」


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ナチス・ハンターと呼ばれた故サイモン・ヴィーゼンタール氏(1995年3月、ウィーンのヴィーゼンタール事務所で撮影)

 ヒトラーが若い時に描いた水彩画が22日、独南部ニュルンベルクで競売に掛けられ、13万ユーロ(約1900万円)で落札されたというニュースを読んだ時、ウィーン美術アカデミーのクリスチャン・グリーケァル教授のことを思い出した。

 アドルフ・ヒトラーは1907年、08年、ウィーン美術アカデミーの入学を目指していたが、2度とも果たせなかった。ヒトラーの入学を認めなかった人物こそ、グリーケァル教授だ。

 もしヒトラーが美術学生となり、画家になっていれば、世界の歴史は違ったものとなっていたかもしれない。ウィーン美術学校入学に失敗したヒトラーはその後、ミュンヘンに移住し、そこで軍に入隊し、第1次世界大戦の敗北後は政治の表舞台に登場していくのだ。
 
 同教授は1839年生まれの歴史画家であり、画家エゴン・シーレの師としても有名だ。同教授は68歳の時、ヒトラーの入学試験に初めて立ち会った。グリーベンケァル教授はシーレを合格させ、ヒトラーを不合格にした美術教授として歴史に名を残した。

 当方は2008年2月、教授の墓を訪ねたことがある。グリーベンケァル教授の墓はウィーン市中央墓地の名誉市民地区に埋葬されている。作曲家や政治家たちなどが埋葬されている区域に、教授の墓もあった。墓碑には、「画家クリスチャン・グリーペンケァル教授、1839~1916年」と記されている。古くなった墓石の周辺には、花はなかった。

 歴史で「イフ」はタブーだが、教授がヒトラーを入学させていたならば、その後の歴史は変わっていただろうか。ナチス・ドイツ軍は存在せず、ユダヤ民族への大虐殺はなかったかもしれない。そうなれば、ナチス・ハンターと呼ばれたサイモン・ヴィーゼンタールの人生は180度変わっていただろうし、ナチス・ドイツ軍の戦争犯罪関与を疑われたために大統領再出馬を断念せざるを得なかったクルト・ワルトハイム氏の晩年は穏やかな日々となっていたかもしれない、等々が考えられる。

 ところで、旧約聖書の主人公の一人、モーセはエジプトから約60万人のイスラエル人を率いて“乳と密が流れる地カナン”に向かったが、途中、挫折した。すると神はモーセの代わりにヨシュアとカレブの2人を選び、カナンへ向かわせた。神は、選んだ中心人物がその使命を果たさなかった時、躊躇せずその代理人を擁立して目的を実現しているのだ。同じように、オーストリア出身のヒトラーが画家になっていたならば、歴史はひょっとしたら別の第2のヒトラーを探し出していたかもしれない。

 しかし、現実の歴史は、ヒトラーが画家の道を諦めた後、ドイツの指導者として台頭し、ユダヤ人の大虐殺を実行したと記している。ヒトラーの蛮行を間接的に助けたのが、先述したクリスチャン・グリーケァル教授というわけだ。

 ウィーンの中央墓地に埋葬されている教授は自身が関わった歴史をどのように解釈しているだろうか。「ヒトラーの絵画は水準以下だったから入学させなかっただけだ」と弁明するだろうか、それとも「私は歴史の歯車の手先となっただけだ。私の責任ではない」と反論するかもしれない。

(ウィーン在住)