バチカンが「武力行使」を容認
独福音主義教会(EKD)元議長のマルゴット・ケスマン女史は同国週刊誌シュピーゲル(8月11日号)とのインタビューの中で、「武力で紛争を解決することには賛成できない」と主張し、「正義の戦争は存在しない」という従来の持論を展開させている。それに対し、世界に12億人の信者を有する世界最大キリスト教会、ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は18日、訪韓からローマに向かう機内で、「少数宗派を抹殺するイスラム教スン二派過激テロ組織『イスラム国』(IS)に対する国際社会の戦闘は合法的だ」と表明して話題を呼んでいる。バチカン法王庁(ローマ・カトリック教会総本山)は過去、いかなる紛争も対話で解決すべきだという平和路線をとってきた。その意味で、フランシスコ法王の武力行使容認論は非常に画期的だ。
バチカンは平和路線から決別したのだろうか。それともISへの戦闘容認はあくまでも例外的対応に過ぎないのか。ISがシリア、イラク国内の少数宗派のキリスト教徒やクルド系民族宗教の信者たちを迫害し、虐殺を繰り返していることに、バチカンはこれまで強く批判してきたが、ここにきて「イラク軍・米軍の軍事攻勢」を「ISを阻止する手段として合法的だ」と表明したわけだ。それに先立ち、スンニ派指導者はISの蛮行に明確に距離を置くことを表明している。
ところで、「正しい戦争」は存在するのだろうか。もし存在するとすれば、誰が「その戦争は正しい」と認知できるのだろうか、といった問題が出てくる。一神教のユダヤ教、イスラム教、キリスト教の歴史では武力行使や戦争は珍しくない。旧約聖書を読めば、神は選民が異教徒を滅ぼすことを求め、攻撃を躊躇すれば、処罰すら下している。旧約時代、神には「正しい戦争」があったわけだ。それは、神側の民族が常に正しく、それに対抗する勢力や民族は敵とみなされ、その敵を下すことが正しいというはっきりととした判断基準があったからだ。
しかし新約時代を経た今日、いかなる戦争も回避すべきだ、といった風潮が強くなってきた。特に、第1次、第2次の大戦で多くの犠牲を出した世界は平和志向となり、帝国拡大主義、植民地政策は否定され、大国も小国も同じ権利を有するという世界観が広がってきた。特に、第2次世界大戦で敗北を喫した日本は戦後、平和憲法を盾に平和主義の道を走ってきた。ゆえに武力行使を伴う国際危機に対してどのように関与すべきかでいつも議論を呼んできた。
そこにISが登場してきた。異教者の首をはね、その流血のシーンを世界に流すISの蛮行に対し、世界はショックを受け、初めて「武力でISを阻止すべきだ」という声が高まってきたのだ。これまでなかった現象だ。
国際紛争の解決を目指すべき国連安保常任理事会は過去、ロシア・中国に対し米英仏の3国が対立する構造を抜け出すことができない状況が続いてきた。だから、国際社会が全員一致で紛争の対応にあたるということは少なかった。それがISに対しては、国際社会は一致してきているのだ。ISは世界を敵に回しているわけだ。もちろん、ISの背後には資金と武器を供給する勢力や一部の国が暗躍しているが、彼らも世界に向かって「ISを支持する」と堂々と宣言はできない状況下にある。
フランシスコ法王の「ISに対する国際社会の戦いは合法的だ」という見解は、スンニ派指導者の「ISの蛮行は容認できない」という表明とともに、勇気ある発言として評価される。
(ウィーン在住)