表現の不自由展、再公開中止こそ知事の責務


 展示作品に抗議が殺到したことで中止になった国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が近く再公開される見通しだ。

問題の本質は展示作品に

 不適切な作品が少なくなかったことから、開催3日で中止に追い込まれたというのに、その作品を基本的にそのままにして再公開するのは理解し難い。企画展を承認したことだけでも責任が問われているのに、その上、再公開したとすれば、芸術祭実行委員会、そしてその会長である大村秀章・愛知県知事は、二重の失態となろう。

 問題の本質は展示作品にある。一部メディアは、元慰安婦を象徴する少女像を主に取り上げ、抗議の背景に韓国に対する「ヘイト」(憎悪)があるかのようなイメージを作り上げる。しかし、最も不適切なのは昭和天皇の写真を燃やし、その灰を踏み付けることを映した映像作品だ。「間抜けな日本人の墓」と名付け英霊を冒涜するような作品もある。

 「芸術」に名を借りたプロパガンダ作品を、公共性の高い芸術祭の企画展として展示するのは、どう見ても不適切だ。脅迫まがいの抗議は論外にしても、展示作品を日本人に対するヘイトと受け取り、怒りを覚えた人が出ても、無理からぬものがある。激しい抗議が巻き起こったのは、このためで、文化庁が芸術祭への補助金不交付を決めたのも妥当な判断だ。

 だが、企画展が中止になったことを検証する、愛知県の有識者検証委員会は前月末、展示内容は妥当だったとし、「条件が整い次第、速やかに再開すべきだ」とする中間報告をまとめた。条件とは、脅迫に備えた十分なリスク回避策や作品解説の充実などだという。多くの人が不適切だと感じる作品を「妥当」と強弁し、脅迫対策を取って再公開せよ、というのだから、本末転倒も甚だしい。

 一方、検証委は、混乱の原因は、慎重意見を退け開催を強行した津田大介芸術監督にあるとし、これを許容した実行委の組織体制にも問題があると批判したが、「反日企画展」と批判されても仕方がないような企画を立てるジャーナリストを芸術監督に選んだ実行委と、会長である大村知事の責任は免れまい。

 特に、8月3日に企画展の中止を決定して以降の知事の言動は理解に苦しむ。「表現の自由」を保障する憲法21条を持ち出して、作品に口出しするのは「検閲」になると弁明を続けるが、それは責任逃れにすぎないのではないか。

 しかも、今回の場合、市民が安全・安心して足を運べる芸術祭として、3年に1度、税金を投入し、愛知県内の公立美術館で開催するのだ。企画展が、公共性の高い芸術祭の目的に合致するのかを審査するのは、実行委会長としての当然の責務であり、決して検閲などではない。

良識ある名古屋市長発言

 実行委会長代行の河村たかし・名古屋市長は「(再公開は)とんでもない」と強く反対しているが、こちらの方が良識ある発言だ。大村知事は、再公開を中止してこそ、自らの責務を果たすことになるのである。