大川小の津波の教訓 教師の甘い判断を悔やむ

先人の被災を念頭に

 3年前の5月、連休を利用して息子の車で、東日本大震災により津波で流されたという宮城県石巻市立大川小学校を見て回った。校舎は破壊され、校門の石壁には校訓が刻まれ、幾つかの花束も供えられていた。

 大津波で、74人の子供たちが津波にのまれ、犠牲となった。校舎のすぐ裏には樹木が茂った山がある。なぜそこに逃げなかったのか。私の疑問は残った。

 2011年3月11日、校長不在の当日、市の広報車が避難を呼び掛けて通った。教務主任が「裏山へ逃げよう」と呼び掛けたが、教師らは「難しい」と判断。北上川沿いの三角地帯に避難しようと歩き出して間もなく津波が襲い、子供74人は次々と波にのみ込まれ、教師10人も犠牲となった。

 生き残ったのは児童4人と、「山へ逃げよう」と言った教務主任だけだったという。

 息子と2人、車を降りて破壊された大川小学校跡地を見て回った。

 数百㍍奥には木が生い茂った裏山がある。なぜ、あの山へ逃げなかったのかと瞬時に思う。林があって登れないのかとも思いめぐらせた。

 かの「稲むらの火」は、小高い丘の上に住む庄屋が、地震の後に海の水が沖に引くのを見て一瞬の判断で収穫後の稲束に自ら火を放ち、驚いた村人が何事かと駆け上がってきて、初めて自分たちが津波から救われたことを知った、という物語だった。

 日本は四方が海に囲まれた地震の多い島国である。飛行機の上空から下を見ると、日本列島の中央に山脈が縦に走り、緑の森が生い茂っている。その海岸線沿いに僅(わず)かな集落があるという、山と海に囲まれた列島なのである。

 さらに地下にはマグマが走り、日本は地震列島そのものと言えるだろう。

 現代人の我々も阪神淡路大震災、東日本大震災、さらに、この4月、熊本大地震を体験している。内陸で起きた地震は建物の破壊で終わるが、海の向こうで発生する地震は、太平洋、日本海の大津波を発生させて、これまでも海辺の村や町を襲ってきた。

 明白なこの現実を、政治家や自治体、そして子供たちの命を預かる教師たちも十分頭に入れておかなければならない。

 上空の飛行機の窓辺に座って下を見る私は、常にそのことが頭にあった。

 東日本大震災から5年。ようやく親たちの思いが叶(かな)ったようだ。大川小の防災に対する判断ミスが、“過失認定”され、損害賠償訴訟に踏み切った27人の遺族たちは勝訴した(10月26日仙台地裁。その後、県と市は控訴)。

 しかし、今回の提訴に踏み切ったのは、犠牲になった74人の児童のうちの23人の遺族のみで、他の遺族は「裁判で子供は戻らない」と、訴訟に加わらなかったという。

 今回の原告団長を務めたのは、6年生の長男、大輔君(当時12)を失った今野浩行氏。勝訴はしても息子は戻らない、と笑顔にはならない。

 新聞(日経10月27日付)に載る今野氏の表情は硬く、さらに真相解明を求めているようだ。

 同じ6年生の三男、雄樹君(同12)を失った佐藤和隆氏も、「息子がなぜ死ななければならなかったのか判決では明らかになっていない。今日が始まりのような気持ちだ」と語っている。

 次女の千聖さん(同11)を失った父親、柴桃隆洋氏も、「本当の検証はこれから」と、子供の命を失った親たちの表情は、いずれも硬い。

救える子供の命失う

 崩れた校舎と、なぜ裏山に逃げなかったのか、と緑深い山並みを眺めながら私も思った。あの山の中腹まで教師も子供たちも登っていたら、子供たちの命は助かったはずなのに。

 校長も不在だったその日。「山さ逃げよう」と子供も言ったという。教師の判断の甘さが、救える多くの子供らの命を失わせてしまったのだと思う。