五木寛之氏の講演録 「自分という奇蹟」に共感
深く感じる人生の意味
最近ふと手に取った文庫本、五木寛之氏の「自分という奇蹟」(PHP文庫)を読んだ。内容はスミセイライフミュージアム「生きる」の講演録で、大変深く人生の意味を感じさせる内容だった。
久々に心和む思いをさせていただいた。
長編小説「親鸞」を書かれた宗教にも造詣の深い尊敬する作家で、先年、亡くなった元女教師の友人に「親鸞」全巻を借りる約束だったが、それが出来ぬままに終わってしまい残念に思っていた。人はある時期、やりたいことの全てが出来ると、愚かにも思い込む時期がある。
しかし、それは不可能に近い。
賢く悟っている人は、それは単なる思い込みで能力や人生の時間には限界があり、天才と呼ばれる人たちは、全ての時間を集注してその仕事に専念する。
それでその人らしい業績を残すことができるのだろう。
迷いから脱することができた人、それが天才と呼ばれる人たちなのだ。
五木寛之氏もその一人と私は思う。
幼い頃、父の書棚から夏目漱石や芥川龍之介の小説本を引っ張り出して読んだものだが、長じて教師となり、政治に利用される異常な組合教師の「労働者化」した教育界に嫌気がさし、教師を辞めてしまった。
その後は登校拒否児や自殺した子らの父母相談に駆け回り、現代政治の弱点を知った。
「悪」を「善」に変えられると思い込んでいた私だが、それが如何に難しいかを、いま、わかった気がする。
人を変えることは難しい。
天才と呼ばれる人たちは、人は人、自分は自分とはっきり分けて考えられる人たちだ。
そこにこだわりを持たず、自分の道に邁進(まいしん)する。
それが天才の人たちの生き方だろう。
それらの人びとが、「自分という奇蹟」を持つことができるのだろう、とこの本は教えてくれる。
現代はインターネットの時代である。
若者も老人も、手にした小型の携帯で、文字を読み、通信までする。
苦悩に執着せぬ達観性
その機械を持たない私は、やはりペンに執着し、紙の文字に安らぎと落ち着きを得る。
それはかつて「歎異抄」を読んだ、という友人を尊敬した女学校時代、いつも静かに目元に笑みをたたえていた友人の笑顔が重なる少女時代の苦しかった戦後の暮らし。
しかし、そんな時期に読んだ「アンネの日記」、ナチスの収容所の体験をある医師がドキュメントとして書いた「夜と霧」など、異常な苦悩の世界にあっても、生きのびた若者の人間性は、現代の私たちも知る必要がある。
多くの宗教家が長命なように、人生の苦悩に執着しない、達観性があるように思う。
アウシュビッツの収容所で強制労働しながら、明日をも知れぬ日々の中で沈む夕日の美しさに、感嘆の声を出す医師のフランクル。
彼は収容所の明日をも知らぬ極限状態で、多くの人々が死んでいった中で友人と声を掛け合い、ユーモアで笑い、夕日の美しさと讃える心が強い生命力を生んだと、五木氏は語る。
本当にそうかもしれないと、私も思う。
異常な教師の世界にあって、組合上がりの校長と対決しても、彼に脱帽させた教員時代を振り返り、未だに長命を保っている私自身も、不思議な感じがする。
子を守る父母の相談を受けつつ助言する私自身、いつどうなるやもしれないと思いつつ、それを恐れ、不安に思うわけでもない人生の正義感。これは死ぬまで語らないと思いつつ、五木寛之氏の「自分という奇蹟」を、自分でも感じつつ読ませていただき、感謝している。