牛島中将運命の沖縄戦、県民に支持された人柄
『言志四録』を愛読
大東亜戦争で沖縄戦を指揮した牛島満は、明治20(1887)年7月31日、旧薩摩藩主の子として鹿児島市に生まれる。幕末から明治維新にかけて活躍した西郷隆盛や大久保利通と同じ甲突川畔・加治屋町で育ち、幼少時代から西郷を尊敬し、西郷の愛読書であった『言志四録』を熟読していた。
その一節「凡そ事をなすは須く天につかうる心あるを要すべし。人に示すの念あるを要せず」を信条にし、地位や名誉にとらわれない「滅私奉公」「敬天愛人」の思想が、生涯を通じて牛島の行動を律していたと言われている。
牛島は明治41(1908)年の陸軍士官学校卒業時には恩賜の銀時計を戴き、大正7(1918)年に起こったシベリア出兵には、野戦交通部参謀として参加し、金鵄勲章を授与された。
牛島が陸軍の中で評価を高めたのは、昭和12(1937)年に歩兵第36旅団長(小将)として武漢・南京を攻略した時だ。当時、中国国内で、野戦で最も強いのは牛島兵団、2位が蒋介石直属軍という評判が立つほどであった。また中国戦線では、「負傷した身寄りのない現地人の老婆を自ら背負って軍医に診せに行ったり、なついた中国人少年を身内のように可愛がって世話したり、用便中に目の前に現れた敵兵を丸腰で捕虜にしたり……」など、牛島の人柄を知るエピソードが残っている。
その後、予科士官学校長兼戸山学校長、公主嶺学校長、士官学校長を歴任するなど陸軍では教育畑を歩む。
戦局が悪化する中、昭和19年8月、第32軍司令官(中将)に任命され沖縄に赴任したのは57歳の時であった。
沖縄に着任後、牛島はサイパン島の玉砕を踏まえ、県民の安全を第一義的に考え、ただちに島田叡知事と協議し、日本本土や台湾、あるいは戦闘の早期終結が見込まれた沖縄本島北部への疎開を指示して、極力非戦闘員に犠牲が出ないような配慮を行う。
また、牛島自ら県民とともに首里司令部洞窟壕作りを手伝ったり、時間があるかぎり作業現場を視察した。県民の献身に感動した牛島は、軍経理部にできる限りの給与を与えるよう指示している。
昭和20年4月1日、沖縄戦の火蓋(ひぶた)が切られた。宜野湾沖は米海軍の18隻の戦艦を始めとして、艦船1500隻によって埋め尽くされる。猛烈な艦砲射撃と空爆でまず海岸線を叩いておいてから、米軍の沖縄本島への上陸が開始された。
これらを迎え討つ日本軍兵力は第32軍の約10万の将兵。この中には沖縄島連合陸戦隊(海軍陸戦隊)司令官・大田実海軍中将が指揮する約1万の将兵も含まれている。
そして牛島が立案した防衛召集令によって、約3万人の県民が軍に組み込まれた。男子の「鉄血勤皇隊」や女子の「ひめゆり部隊」も含まれている。
沖縄戦は18万の米軍兵力を3カ月近くも食い止めることには成功したものの、5月末に軍司令部が首里から摩文仁に撤退すると、県民、将兵ともに膨大な数の犠牲者を出す悲惨な戦いとなった。
6月上旬、米軍のサイモンB・バックナー中将に軍使を送り、知念半島の非武装化を提案し、そこに県民を移そうとした。米軍も一旦(いったん)それに同意していたが、バックナー中将が戦闘観望中に日本軍の銃弾を浴びて戦死したため、その計画が頓挫したことも、県民の犠牲者を増やした要因の一つとなる。
軍人としての最期
昭和20年6月23日午前4時過ぎ、3日前に大将昇任の知らせを受けた牛島は、辞世の句「矢弾尽き天地染めて散るとても魂還り魂還りつつ皇国護らん」「秋待たで枯れ行く島の青草は皇国の春に甦らなむ」を遺し、摩文仁の丘の洞窟で長勇参謀長らとともに自決、自らの死を持って沖縄戦に終止符を打った。