内モンゴル自治区における民族浄化の実態について
中国共産党は草原で何をしてきたのか
静岡大学人文社会科学部教授 楊 海英氏
言語を奪う同化政策
静岡大学人文社会科学部教授の楊海英氏は17日、世界日報の読者でつくる世日クラブ(会長=近藤譲良・近藤プランニングス)で、「内モンゴル自治区における民族浄化の実態について ~中国共産党は草原で何をしてきたのか~」と題し講演した。講演は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、動画サイト・ユーチューブのライブ配信を通じて行われた。楊氏は、近代以降のモンゴル人が歩んだ歴史を語り、1945年、米英ソの間で内モンゴル自治区を当時の中華民国に引き渡すことを密約したヤルタ会談について「当事者らのいない状況で行われた、国際法上違法なものだ」と指摘した。以下は講演要旨。
チンギスハンは中国人と主張
領土継承のため歴史改竄
文革時には大量虐殺も
現在、モンゴル人はモンゴル国に約300万人、内モンゴル自治区に約500万人、新彊ウイグル自治区、ロシア連邦のブリヤート共和国、カルムイク共和国、その他全世界に約1000万人、日本には1万2000人ほど暮らしている。モンゴルは万里の長城以北を指し、農耕に適さない風土で、遊牧文化を持つ。

よう・かいえい 1964年、内モンゴル自治区オルドス生まれ。北京第二外語学院大学日本語学科を卒業後、日本に留学。2000年、日本へ帰化。2006年から現職。2011年、『墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店)で司馬遼太郎賞受賞。主な著書に『モンゴルとイスラーム的中国』(文藝春秋)ほか多数。
13世紀にチンギスハンによりモンゴル帝国が生まれる。元朝を中国の王朝と見なすかという問題があるが、モンゴル人にとって元朝はモンゴル帝国の東の一部。しかし中国は「中国歴史で一番輝かしい王朝」「チンギスハンはヨーロッパに遠征したただ一人の中国人」と主張している。これについては魯迅が「元朝時代の中国はモンゴル人の奴隷だった」と指摘したが、彼は中国の教科書から抹殺されている。元の次に誕生した漢民族の王朝・明は閉鎖的で海禁政策を取ったので、当時の中国人が台湾や尖閣を支配したという主張は成立しない。その時モンゴル草原はチンギスハンの直系子孫が支配し、満州人の清朝に政権を譲るまで元朝が続いていたというのがモンゴル人の歴史観だ。
元と清は漢人の王朝ではないが、中国は領土を継承するため歴史を改竄(かいざん)し、チンギスハンは中国人だという到底通らない主張をしている。
300年間続いた清朝崩壊の直前から、内モンゴル・外モンゴルという呼称が生じた。モンゴル分断のためだ。1911年にモンゴルが清朝に対して独立を宣言、中華民国成立は翌12年だが、漢人はモンゴル独立に反発した。清朝崩壊後、日本人は孫文の中華民国を支援する者と満蒙(まんもう)を支援する者に分かれ、国として統一した政策を取らなかった。
25年にはソ連の援助を受け、民族主義の内モンゴル人民革命党が誕生した。党員は日本風の教育を受け、民族自決の思想に染まっていた。満州国が成立した32年以降は活動停止していたが、45年の満州崩壊直後、復活する。
45年まで内モンゴルは3分割され、満州国の西側、徳王による蒙疆(もうきょう)政権(内モンゴル自治邦という事実上の独立国家)、中華民国・中国共産党の影響下にあった地域に内モンゴル人が暮らしていた。
満州国西部ではモンゴル人が遊牧を営んでおり、日本は現地の風土に適した遊牧文化を保護した。また、農耕民の中国人と遊牧民のモンゴル人は仲が悪いと見抜き、住み分け政策を取った。こうした当時の日本の対モンゴル政策は正しかったと言える。
満州国のもう一つの特徴は、近代化が進んだこと。日本は教育に投資した。31年には学校が335校あり、23万人の学生がいたという。当時のモンゴル人の人口は約50万人なので、極めて進学率が高い。大学や軍学校、女学校もたくさんあった。同時期に漢人の支配下にあった地域には、高校は1校のみだった。
一方、蒙疆政権(モンゴル自治邦)の徳王は日本の力を借りて独立を目指した。終戦時ソ蒙連合軍が南進し、満州にいた日本人は苦労して引き揚げたが、モンゴル自治邦ではほとんど犠牲者を出さなかった。徳王が軍に命じて日本人が帰れるよう取り計らったからだ。招かれざる客でも、「客人を困らせてはいけない」という考えだった。
終戦はモンゴル人にとって民族解放の戦争の始まりだった。モンゴル国軍は同胞を日本と中国から解放するため南進していた。しかし解放の喜びは、1945年2月に結ばれたヤルタ協定によって一瞬にして終わってしまう。英米ソの極秘会談で、ソ連は満州国に出兵し、その代わり内モンゴルを中華民国に引き渡す、戦後処理の一環として北方領土をソ連に引き渡すことを密約した。その場にモンゴル人も日本人もいない。当事者がいない状況で秘密裏に行われたヤルタ協定は国際法上違法だ。日本も北方四島の返還を求めるなら、法律に基づいて主張すべきだ。
49年、中華人民共和国が誕生し、内モンゴルではウラーンフーによる「民族区域自治」が始まるが、徐々にモンゴル人と中国共産党の衝突が激しくなる。
当時中ソは対立しており、中国はソ連軍が攻めて来たらモンゴルがソ連側に付くだろうと思い、64年からモンゴル人粛清の準備を始めた。ウラーンフーは少数民族政策の責任を持つなど実権を握っていた。その意味で当時は「自治」が行われていたと言えるが、66年の彼の失脚以後、中国共産党で少数民族出身者が重要ポストに就いたことはない。その2週間後に文化大革命が勃発、モンゴル人大量虐殺が始まる。中国はモンゴル人が実権を握っているのが不安だったのだろう。中国が公開している数字でも34万6000人逮捕、2万7900人殺害、12万人に身体障害が残ったとされる。1家庭当たり1人ほどは逮捕されている。
76年に文革が終結した。90年代に江沢民により西部大開発という政策が始まる。方々で高速道路が建設され、中国が経済的発展を遂げる。内モンゴルで豊富な石炭、石油、レアアース、ウランなどの資源は日本統治時代に日本人が発見したものだ。図などを作って詳細に調査済みだった。中国共産党はそれを利用し開発した。
中国は現地住民の生活を一切考慮しない。村の真ん中に敷かれた高速道路で家畜がひき殺されるなどの被害が毎日起こっている。農耕民からすればただの動物かもしれないが、モンゴル人はじめ遊牧民にとって家畜は家族の一員。受け入れ難い暴力だ。
中国政府は同化政策を続けている。モンゴル民族学校では「中国語を話しましょう」と標語が掲げられ、子供たちは教室の外でも互いに中国語を話すほど同化が進んでいる。モンゴル語を段階的に減らし、中国語だけにする政策がすでに始まった。モンゴル語は外国語のような形で残るが、受験になると誰も勉強しなくなる。モンゴル人は子供からお年寄りまで一致団結し、日本の農民一揆の傘連判のような署名を集め反対した。それも政府に受け入れられなかったため、絶望して自殺した30歳の女性公務員の遺書には「一生懸命署名を集めても人口の面で既定の数に到達できない」と綴られていた。
内モンゴルだけでなく、世界中でモンゴル人の団結が強まっている。ウランバートル、東京、大阪、名古屋、ヨーロッパ、北欧でもモンゴル族が同胞のために立ち上がっている。中国は弾圧を緩めていない。内モンゴルの歌手が歌を通じてモンゴル語を守ろうと訴えたら逮捕された。今後民族問題としてますます先鋭化していく可能性がある。
内モンゴルは日本と特別な関係にあった。かつて植民地だった内モンゴルに注視し続けて、できれば積極的に応援し、関わりを持ってほしい。





