未来志向のスタート 「百年後よかったと思える」決断
日韓国交正常化50年 「嫌韓」「反日」を越えて(1)
1961年(昭和36年)、韓国で引き起こしたクーデターが成功して間もなく、最高司令官だった朴正熙・国家再建最高会議議長(後に大統領)が訪日した。目的の一つは、一人の男に会うためだ。
「自分たち若い陸軍の軍人が軍事革命に立ちあがったのは救国の念に燃えたからだが、その際に日本の明治維新の志士を思い浮かべた。あなたの先輩の吉田松陰先生や高杉晋作、久坂玄瑞などという人々のつもりでやった。けれども実際若いし軍人だから政治のことはわからない。いわんや経済問題はわからない」
「ところが韓国の政治界にも財界人にも自分の利益だけ追求していて、国という考えがない。だから彼らに相談しても国の建設ができないので、あなた方日本の政治家の意見も聞きたい。そのためにはまず国交を正常化しなくてはいけない」
朴氏がこう語った相手は、退任して約1年の岸信介前首相。依然として政界に大きな影響力をもっていた。岸前首相は朴氏の話にこう答えた。
「その通りだが、両国の間には難しい国民感情があるから、現在の(韓国)国民が拍手喝采するような条約をつくろうという気持ちなら、真の正常化はできない。しかし、百年後には、あの時に条約を結んでおいてよかったと思えるような長い先を見通すつもりで正常化に取り組むなら話は別だ」
その後、日韓経済協会の初代会長を務める植村甲午郎氏が韓国へ行った時、朴氏から「今の日本国民が満足するような条約を結ぶことを(日本)政府が考えていてはだめで、今の国民から攻撃されても、百年後にはよかったというつもりでやりましょう」と言われ、それを岸前首相に「朴正熙はうまいこと言った」と報告すると、岸前首相は「いや、それは実は私が朴さんに言ったことなんだ」と言って笑った。
以上のやりとりは『岸信介の回想』(岸信介・矢次一夫・伊藤隆著 文藝春秋社)に詳しいが、日韓双方の政治指導者が当時すでに「百年後」を見据えた未来志向の姿勢だったことは注目に値する。
日韓両国は1965年(昭和40年)6月22日、岸元首相の実弟、佐藤栄作内閣と朴政権が「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(通称、日韓基本条約)に署名。以降、北東アジアにおける反共路線や経済協力を中心に密接な関係を維持し、今年で半世紀の歳月を刻む。
しかし、現在の日韓関係は「国交正常化後では最悪」(日本政府関係者)といわれるほどぎくしゃくしている。日本側には「いわゆる従軍慰安婦問題を中心に過去の歴史認識問題に執着し続ける朴政権」、一方の韓国側にも「『戦争ができる国』に向かって“右傾化”に拍車を掛ける安倍政権」という相手国への不満や不信が募っている。
日韓国交正常化から50年という節目の今年、図らずも岸元首相を祖父にもつ安倍晋三首相、朴元大統領の娘である朴槿恵大統領に両国関係の今後の方向性を決める役回りが巡ってきた。
関係者によると、安倍首相の総裁特別補佐、萩生田光一衆院議員は「安倍首相は私に『朴大統領とは国際会議の場を利用して何度か非公式に対話している。2人の関係は個人的には悪くないんだ』と漏らしていた」と語った。お互い表向きは譲歩しないように見えるのは「自国民の手前、仕方がない」(萩生田議員)という。
朴大統領についても、日韓関係に詳しいある韓国の専門家は「反日ではなく、約束や原則を重んじる政治スタイルがそのように映っているだけ」と言い切る。
岸元首相が首相兼外相だった頃、日本の国交正常化に対する本気度を確かめるため、韓国代表部の金祐沢大使らが岸首相の自宅を訪ねた際のエピソードが残っている。
「表には新聞記者が大勢いたため、裏の台所口から入ったら、安倍晋太郎さんが岸さんの娘と結婚して間もない時で、生まれたばかりの赤ん坊のおしめが干してあり、そのトンネルの中をくぐって入ったことがある」(『岸信介の回想』より)
この「赤ん坊」の弟として後に生まれるのが安倍晋三首相である。
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日韓国交正常化50年。日韓双方での取材を通じ、「嫌韓」「反日」世論を超えた両国関係の在り方について考えた。
(編集委員 上田勇実)