日韓国際結婚 2世に託す両国の懸け橋

日韓国交正常化50年 「嫌韓」「反日」を越えて(12)

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山形県戸沢村の韓国家庭料理店「日韓ひろば」でインタビューに応じた大友良夫さん(右)と淳浩さんの夫婦(今月4日、上田勇実撮影)

 あのな、私の働いている工場でよ/おばさんたちがうるさいのよ/「なんで韓国からこんな山奥にヨメきたの?」って/「運命だよ」って答えんのよ/そしたら、工場のおばさんたちがよ、態度ころって変わってよ/「韓国にテレビはあるの?」とか「冷蔵庫は?」なんて聞く人もいるんだよ/「○○さんすごいな」だって/「ソウルはここよりずっと大きな都会だよ」って言ってやるんだ、そんな時は/それから、少し私によくなったの……

 これは山形県最上郡戸沢村(とざわむら)の斡旋でお嫁に来た韓国人女性が、来日後に通った地元の日本語教室で作った詩の一編だ。

 今から30年ほど前、戸沢村は過疎と跡取り不足に悩んでいた。周辺の自治体が行政主導による国際結婚に踏み切ったことに刺激され、戸沢村も1989年に初めて韓国から3人、フィリピンから8人の女性を連れてきて、村の男性たちとの結婚を世話した。

 当時、村役場で実務責任者として奔走した寺内恵一さんはこう振り返る。

 「マスコミをはじめ賛否両論があり、ひどい時は人身売買と言われることもあったが、国際結婚推進派の村長のリードもあって、村の男性を募ってみると『韓国に行って(嫁さん候補と)見合いしてみたい』と名乗り出る人が何人かいた」

 村の仲介で結婚し、その後定着した最初の韓国人女性の一人、大友淳浩(スンホ)さん(韓国名・李淳浩)は、ソウル市内の女子大を卒業して家事手伝いをしていた頃、この結婚斡旋の話を知り、今の夫の大友良夫さんと出会って結婚した。

 娘を産んだ後に帰国した際、植民地時代を知っている母親から「日本の子どもを連れてくるな」と言われ、「日本の子どもじゃなくて、私の子どもよ」と言い返した。妹に会いに戸沢村に来た兄は、高齢の良夫さんの母を不憫(ふびん)に思い、これを煎じて飲ませるようにと淳浩さんに高麗人参を渡したこともあった。韓国の家族が大友さんたちの結婚を認めてくれるようになったのは、長男が生まれてからだったという。

 淳浩さんは最上川のほとりに日韓友好を願って造られた観光施設「高麗館」に勤務した後、7年前から韓国家庭料理店を切り盛りする。大勢の日本の友達が訪れ、時には人生相談に来る人もいる。日本の嫁以上に舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)の面倒を良く見るだけでなく、韓国仕込みの教育ママぶりを発揮し、子供が村で初めて東京の難関私大に合格した。模範的な生活は評判だ。

 「戸沢村に嫁に来て26年たつけど、夫も私も『日本はこうで、韓国はああだ』という感情など関係ねえのよ。うちの子も韓国に留学したり、日本と韓国の懸け橋になりたいと思っているよ。この前も『お母さん、また韓国いくべー』と言っていた」

 こう話す淳浩さんの横で、良夫さんも「私たち一般の人は政治家と違い、日本人と韓国人だといっても会えば別にいがみ合うこともないし、仲良くするのが当たり前」と言う。

 東京で知り合い、結婚して1年の李尚”(イサンヨプ)さんと佐藤夏子さん。日本留学後、日韓両国で仕事をしていた李さんに転機が訪れたのは、2011年3月の東日本大震災の時だった。

 「震災を境に独身生活ではなく、家族という絆(きずな)を持ちたいと思うようになった」

 二人の間には1歳になる男の子がいる。佐藤さんは「この子は成人する頃まで日本と韓国の二重国籍を持つ。日韓ハーフであることをチャンスとして生かす人生を送ってほしい」と語った。

(編集委員 上田勇実)