「1」にこだわり、真っすぐ駆け抜けた競技人生


常に挑戦した大迫傑選手、ラストランは「100点満点」

「1」にこだわり、真っすぐ駆け抜けた競技人生

陸上男子マラソンで給水する大迫傑選手(右端)=8日、札幌市(代表撮影)

 現役最後のレースを6位入賞で終えた陸上男子マラソン大迫傑選手(30)=ナイキ=。「1」にこだわり、真っすぐに駆け抜けた競技人生だった。

 中学時代の一時期は、自校と他校の陸上部、クラブの三つ掛け持ち。2年間指導した清新JAC代表の畠中康生さん(63)は「負けず嫌いで、トップ選手を絵に描いたような子だった」と語る。チーム内3番手ながら、試合や練習でも先頭を引っ張った。

 金井中(東京都町田市)時代に陸上部顧問だった山口智美さん(49)は、過度な練習に将来を案じ、セーブさせることに心を砕いた。けがを押して駅伝に出ると言い張った時は「大迫という強い選手がいたけど、高校で聞かなくなったねと言われたい?」と諭した。

 何より純粋だった。練習があるからと掃除をさぼる大迫選手を注意したところ、翌日から昼休みに掃除をした。「強くなりたい意識は尋常じゃなかったけど、速くなるためなら、たとえうそでも信じてしまうような素直な子だった」と振り返る。

 佐久長聖高(長野県佐久市)時代にコーチとして指導した現監督の高見沢勝さん(40)は、「ストイックで、1番にこだわっていた」と明かす。登校も食事も風呂も1番、げた箱の番号まで「1」。練習日誌には全国のライバルの名前が頻繁に登場し、「絶対負けない」と記された。

 毎週水曜の朝練習はアップダウンのある10キロのコースで、大迫選手が先輩らとデッドヒートを繰り広げた。全員がレース用シューズで臨み、定番化。高見沢さんは「毎週挑み、はね返されての繰り返しでした」と話す。

 常に挑戦する場を求めてきた大迫選手。五輪の東京招致が決まった後、陸上大国の米国に渡った。迎えた五輪は先頭集団から離された後に猛追し、笑顔でゴール。「100点満点の頑張りができた」と最後のレースをかみしめた。