沖縄復帰から49年、日本人元米兵が振り返る


基地育ちでベトナム戦争に従軍した主和津さん「良かった」

沖縄復帰「良かった」、日本人元米兵が振り返る

自宅で思い出の写真の前に立つ主和津ジミーさん。嘉手納基地内には「Jimmy’s Way(ジミーの言う通り)」と名を冠した通りもある=4月24日午後、沖縄県北谷町(時事)

 1972年の沖縄本土復帰から、15日で49年。日本人ながら米兵としてベトナム戦争に従軍し、米国籍も取得した主和津ジミーさん(80)沖縄県北谷町は、米側として迎えた復帰の日を「良かった」と振り返り、沖縄人(ウチナーンチュ)としてさらなる発展を願う。

 伊江島で暮らしていた48年、同島で起きた米軍の爆弾処理船爆発事故で、軍の通訳だった父を亡くした。嘉手納基地に引き取られ、基地から学校に通った。米国人の級友から差別も受けたが、軍隊仕込みの靴磨きで稼ぎ、島で暮らす母に仕送りをした。

 やがて、「アメリカへ行って軍に入り、沖縄に帰って来たい」と夢見るようになった。米兵に養子として迎えられ、高校から渡米した。陸軍入隊後の64年、志願してベトナムへ。初めての戦闘で激しい銃撃を受け、死を覚悟した。「身体がこわばって機関銃の引き金が引けなかった」。人体に有害と知らずに枯れ葉剤もまいた。

 66年、サイゴン(現ホーチミン)近くの師団司令部に配属された際、戦場カメラマンの石川文洋さん(83)と出会う。沖縄出身の石川さんに親しみを感じ、戦闘へ向かう部隊の指揮官に引き合わせ、取材を助けたという。

 翌年から念願の沖縄勤務となり、占領統治機関だった琉球列島米国民政府で、最高責任者だった高等弁務官の側近を務めた。退役して迎えた本土復帰の日を「高等弁務官が去り、先の見えない不安はあったが、生活環境が劇的に改善し、やはり良かったと思った」と語る。

 その後、軍属の「地域コーディネーター」として、軍と地域の子供たちとの交流活動などを支援。高齢のため今月で役目を終える。

 沖縄戦の記憶から、県民には米軍基地への反発は根強く、元米兵として心を痛めることもある。しかし、主和津さんは「沖縄はこれからもっと発展する」と期待を込める。