日比友好拓いた「赦し難きを赦す」
戦犯特赦に尽力した画家・加納辰夫
安来市加納美術館名誉館長 加納佳世子氏に聞く
天皇、皇后両陛下が26日から5日間の日程でフィリピンを公式訪問されるが、同国で戦後、戦犯として収容されていた旧日本兵の赦免に尽力した人物がいる。島根県安来市出身の画家、加納辰夫(画号=莞蕾(かんらい))。昨年11月、戦犯を特赦したエルピディオ・キリノ大統領(当時)の生誕125年祭に招待され、同大統領の孫娘と対面した安来市加納美術館名誉館長の加納佳世子さん(71)に、平和を希求し続けた加納辰夫の思想などについて聞いた。(聞き手=森谷 司)
嘆願書が大統領動かす
平和の尊さ伝える使命継ぐ
故加納辰夫が赦免運動へ動いた背景は。
父の加納辰夫は従軍画家として中国で戦争を見てきました。昭和20年、戦後の自分の生き方を模索していたころ、元海軍少将、古瀬貴李氏に出会いました。同氏は、激戦地フィリピンで戦犯として多くの日本兵が残されたことを知り翌年、自ら再びフィリピンに向かったのです。そして24年、その古瀬氏にも死刑判決が下されましたが、その裁判における同氏の立派な態度を知り、このような人ほど平和のために生きるべき人だと思ったのです。そして比大統領への嘆願書を書くことになりました。
もちろん「許してほしい」という嘆願書は多いのです。父も最初はそのように書いていました。しかし、2通目の嘆願書を書く前に、父はキリノ大統領の家族(奥様と3人のお子様)が日本軍に殺されていることを知るわけです。その人に対して「戦犯を許せ」という嘆願書を書くのは虫が良すぎるのではないかと思いました。
その後、キリノ大統領がクリスチャンであることを知り、何度も教会で祈る姿を考えたら、神はどう思っているか、という観点で訴えなければならないと思うようになりました。
辰夫はキリノ大統領への第4嘆願書にこう記しています。
「第1嘆願書を奉呈して以来200日の間、日本人戦犯と同国民であるが故に負わなければならない戦争の極悪と罪の意識を反省してまいりました。厳粛な罪の意識と神への深い信念の履行から、彼と共に裁きの前にある己を認識いたしました。
『赦(ゆる)し難きを赦す』という奇跡によってのみ人類に恒久の平和をもたらし『目には目を』ということでは決して達成し得ないということを、これまで以上に強く感ずる次第です。
閣下の手から残虐にも奪い取られた愛児の名において―赦し難きを赦す―この奇跡が現れることを待ち望むところであります。何人といえども閣下の胸中に過ぎる悲しみと怒りと憎しみの深さを計ることはできないでありましょう。……キリストの如(ごと)く十字架にかけられ、異教徒や不信心者をキリストのみ足の下に寄せ、主に感謝し称賛せしめる慈悲の偉大なる奇跡を顕現させるために努力しているのは、天国にいます閣下の愛児たちでありましょう。……それこそ貴国とわが国との友好と平和を生み出す最良の貢献でありましょう」
キリノ大統領と加納辰夫の精神、平和思想はどのようなものだったのですか。
世の中には多くの争い事があります。神はどう思われるでしょうか。やはり平和を願われるでしょう。お互いがそう考えたら、平和への道も開けるだろうと莞蕾は思ったのです。私もそう思います。
キリノ大統領は、大統領である自分の決断によって、将来のフィリピンと日本の関係につながっていく。そこまで考えたのではないか、と私は思いました。
1953(昭和28)年のキリノ大統領の日本人戦犯の釈放声明は次のようなものです。
「私はフィリピンに服役中の日本人戦犯にフィリピン国会の賛同を必要とする大赦でない赦免を及ぼした。
私は妻と3人の子供とその他5人の家族を日本人に殺されたため、彼らを赦そうとはよもや思ってもみなかった。私は、私の子供や国民が、やがてはわが国の恒久の利益の友となるかもしれない国民に、私から憎悪を受け継がしめないことを欲するが故に、これを行うのである。結局、運命が私たちを隣人となさしめた」
昭和30年にキリノ大統領が来日した時、東京帝国ホテルで加納辰夫は大統領に面会し、握手をした写真が残っています。
加納美術館が誕生した背景は。
兄(加納溥基)は、父親の絵が残っていたということもあると思いますが、故郷に美術館を建てました。加納美術館は個人からの出発です。それから、6年目に、安来市に寄贈しました。そして、名前も安来市加納美術館となりました。
兄は亡くなる前にこう言っておりました。「オヤジにはかなわなかった」と。加納美術館を造ってから10年、73歳で兄が亡くなりましたので、私が大阪から島根県安来市に帰り、安来市加納美術館を守ることになりました。兄が私財をなげうって美術館を造り、父の画家としての作品、キリノ大統領への嘆願書などの貴重な資料、手記、友人との対談の録音テープを整理してくれたおかげで、私がこの度の『画家として、平和を希(ねが)う人として』の出版に結び付けることができました。
私が本を書きましたのはこの地に平和思想を持った者が居たということを残しておきたかったのです。
著書出版の経緯は。
美術館で案内をして説明しているうちに、お客様から、これを書いた本のような物はないかと聞かれるようになりました。残念ながら今まではそれがなかったのです。家族の勧めもありそれなら頑張って書こうと思い、数年かけて本にしました。
父が大統領に宛てた文章は、上手だと思います。人の心に訴える嘆願書ですから、独りよがりでもいけません。安来市加納美術館の核心は、もちろん美術品もありますが、父のこの書簡の理念にあると思います。
私は美術館に来られる人には、平和の尊さを感じてほしいと思うのです。それをこの地から発信していきたい。そういう美術館でありたいと思っています。
父は画家だったのか、哲学者だったのか。あるいは書家だったのか、いろいろ言われます。その中には、宗教家だったというものもございます。私はそういうふうに感じていただけるのは有り難いと思います。
彼は非常に宗教に対して深いものを持っていました。その特長は、「宗教は詰まるところ一つである」ということです。父は戦争体験を通して、「戦争とは何んぞや。命とは?生きるとは?」と問い続けていました。
キリノ大統領生誕125年記念式典に招待されましたね。
昨年、ある人を介してキリノ大統領の孫に当たるルビー・ゴンザレス・キリノさんにお便りする機会を与えられ、ルビーさんからお手紙をもらいました。「あなたの父親が送られた手紙は、私の祖父の歴史的な判断に影響を与えたに違いないと確信する。私たちは、この深い人間性を持った2人の男性のことを忘れず記憶し続けなければならない」という内容でした。
今も加納辰夫の嘆願書がマニラの公文書館に保管されています。昨年11月のキリノ大統領生誕125周年の記念式典に私と美術館の理事長の夫と2人招待されて、フィリピンを訪問しキリノ大統領の孫娘ルビーさんと対面でき、とても感激致しました。
ルビーさんは、加納の考え方をとても評価してくださっています。平和を築くということは、歴史を踏まえながら自分の考えを持つこと。そして、許し難きを許すこと。平和を後の人に伝えることが、私とルビーさんの仕事だと思っています。これからは父、加納辰夫の平和思想、平和の大切さを伝えていくことが私の使命だと感じています。