解釈改憲も憲法改正の一つの道

ドイツと日本の交流150年

日本大学名誉教授 小林宏晨氏に聞く

 EU(ヨーロッパ連合)で独り勝ちの様相を呈しているドイツと日本の交流は1861年の修好通商条約に始まる。今年、修好150年を記念する展示が歴史民俗博物館をはじめ関係都市で行われている。ドイツで憲法学を学び、EUにも詳しい小林宏晨・日本大学名誉教授に日本とドイツの150年を振り返ってもらった。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

ドイツ基本法は自前の憲法/制定過程で対等に交渉
1週間で作った占領軍草案を翻訳して制定した日本国憲法

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 ――日本とプロイセンとの間に修好通商条約が結ばれてから150年になる。

 当時、ドイツという統一国家はまだ成立しておらず、来日したオイレンブルク伯爵はプロイセンはじめドイツ諸国との条約を結ぼうとしたが、幕府はプロイセン一国だけと条約を結んだ。1862年に日本が初めてヨーロッパに派遣した使節団に対して、プロイセンの宰相ビスマルクは、国力を高めるにはどうすればいいか、親身になって教えている。

 ドイツ大帝国が成立したのは、普仏戦争でビスマルクがフランスを破り、アルザス・ロレーヌ地方をドイツに併合した71年だ。明治の日本にとって新興国ドイツはモデルの国とされ、留学生やお雇いドイツ人を通じて、法律や医学などの学問、軍隊や政治の仕組みなどが取り入れられた。一方、19世紀末のドイツでは、英仏に少し遅れて日本絵画などジャポニズムがブームとなり、日本の影響が及んだ。勤勉で規律正しい国民性が共感を呼んだのだろう。

 ――第一次世界大戦では日独は敵国同士になった。

 しかし、それほど大きな戦闘はなく、日本は中国の青島などからドイツ兵の捕虜を収容した。各地の収容所では地域住民との交流も生まれ、徳島県の板東俘虜収容所では、1918年にベートーベンの「第九」が日本で初めて演奏されるなど、交流の歴史を刻んだ。31年の満州事変に対してはドイツでも批判が高まるが、その後、ヒトラーが登場し、36年の防共協定、40年の日独伊三国同盟と両国は接近を強め、敗戦となった。

 第二次世界大戦が終わるまでの世界は帝国主義、植民地主義の時代で、良し悪しは別として、日本もそれに積極的に参加した。第二次大戦は、自由主義陣営と全体主義陣営との戦いとされるが、それほど単純ではない。第一次世界大戦の終わらせ方に第二次大戦の原因があった。ヒトラーが行ったユダヤ人600万人の殺戮(さつりく)は、戦後、国際人道法ができるきっかけになった大変な犯罪だったが、スターリンは800万人の自国民を餓死させ、殺害し、強制収容所に送り、毛沢東はその何倍もの人民を殺している。

 昭和12年からの日本が軍国主義だったことは間違いないが、大戦中も選挙は行われ、東条英機に反対した候補者も当選し、首相も交代しているので、議会制民主主義はそれなりに機能していた。ドイツは39年にソ連と不可侵条約を結んでポーランドに侵攻したのが第二次大戦の始まりで、全体主義国同士が手を結んだことになる。

 ――ドイツに比べ日本は反省が足りないとの論がある。

 当時の日本の指導者に将来を見通す力がなかったのは確かだが、ドイツは反省して立派だが日本は反省していないと批判するのは単純過ぎよう。ドイツのブラント首相が1970年、ポーランドのワルシャワを訪問した折、ゲットー蜂起犠牲者記念碑の前でひざまずくなど象徴的な行動に長(た)けている。しかし、ドイツは国家として犯罪行為を行ったことは否定し、国家賠償も行っていない。ヴァイツゼッカー大統領が85年に連邦議会で行った「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」という演説も、要は「歴史を忘れない」ということで、自国の罪を認めたわけではない。日本は一億総懺悔(ざんげ)してしまうくらい情緒的だが、ドイツ流に言うと戦争について謝る必要はない。もちろん、個別の非人道的な行為が歴史的な事実であれば、それを反省し、忘れないという義務はある。

 ――戦後の両国を比較すると…。

 憲法制定過程に両国の違いが明確に出ている。日独の根本的な違いは、日本は第二次大戦まで、外国に敗戦し、支配されたことはないが、ドイツはナポレオンのフランスに敗れたように、何度も外国に支配されている。勝ったり負けたりするのが戦争で、ドイツは負けたことは反省しているが、戦争を始めたのは悪いことだと思っていない。戦争は一方が100%が悪いということはあり得ないからだ。その違いが占領軍に対する姿勢にも表れている。

 日本には極東委員会があったが、実質的には米国一国による占領だった。米国の占領統治下で制定された日本国憲法には、米国の意向が大きく盛り込まれていたことは当然で、日本はいわゆる「芦田修正」により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」という語句を加えて自衛の戦争を認め、それに対する歯止めとして、極東委員会の指示で国務大臣は非軍人でなければならないとする第66条2項の文民条項が追加されたくらいだ。

 ところが戦後のドイツは東ドイツはソ連の占領が確定し、西ドイツは米英仏による分割占領地域が統合されたもので、基本法の制定過程でアデナウアー首相は3カ国と対等に交渉している。民主化と連邦制では合意したが、それ以外のことについては独自で草案を作った。ドイツ基本法は実質的に自前の憲法だが、占領軍が1週間で作成した草案を翻訳して制定した日本国憲法はそうとは言えない。それを、左翼の人たちが後生大事に守っているのは歴史の笑い話と言えよう。

 その自前の憲法をドイツは66年間で60回も改正しているのに、日本は押しつけられて憲法を1回も改正できていない。そうなった第一の理由は、改正の発議が衆参両院の本会議で、それぞれ3分の2以上の賛成を必要とするという、非常に厳しいものだからだ。そのため、憲法は神棚に上げて拝んでおくもので、必要なことはその都度の解釈によってすればいいという日本人の憲法観が作られた。ところが、安倍晋三首相が戦後レジームからの脱却を掲げて登場し、憲法改正の機運が出てきた。

 それを評価した上で私が付け加えたいのは、解釈改憲も憲法改正の一つの道であるということだ。解釈改憲は邪道だとする人たちは、正規の憲法改正が難しいことを分かって言っているにすぎない。しかし、憲法が成立した時から憲法解釈も始まっているのである。

 私が指導を受けたヴュルツブルク大学のフォン・デア・ハイテ教授は、第二次大戦のクレタ島の戦いで落下傘部隊を指揮し、戦後、マインツ大学で憲法と国際法の教授になった人だ。彼が教授就任の記念講演で語ったのが憲法変遷論で、憲法改正には三つの方法があり、正規の手続きによる改正、クーデターや革命による廃止と新憲法の制定、もう一つが解釈改憲である。

 解釈改憲は革命を防ぐためにも必要であり、ドイツでは憲法の教科書に書かれている常識である。

 小林教授の専門はドイツ基本法と国際法で、ドイツのヴュルツブルグ大学、スイスのジュネーヴ大学、フランスのパリ大学に学んだ。上智大学教授、日本大学教授、防衛庁防衛研修所客員研究員、ボン大学客員教授、比較憲法学会理事長、防衛施設庁中央審議会委員等を歴任し、安全保障関係法、比較憲法、EU法もカバーする。学究の徒にとどまらず熱い愛国心の持ち主で、1980年代にはいわゆるスパイ防止法の制定運動に尽力した。出身地の小阿仁村長を1期務めたのも郷土愛のゆえだろう。第4次産業革命を進め、ユーロ経済圏を基盤に大帝国復活を目指す勢いのドイツの動向は、東アジアにおける日本の将来を考える上でも目が離せない。