満開の見事さと散り方の潔さ 桜を愛した日本人の心

万葉の花研究家 片岡寧豊さんに聞く

 古来、日本人は桜を愛し、さまざまな思いを桜に託して言葉に紡ぎ、絵や音楽に表現してきた。桜が日本人の心性を育ててきたとも言えよう。古都奈良も3月下旬から4月下旬にかけて、桜の花に彩られる。万葉の花研究家・片岡寧豊(ねいほう)さんに奈良の桜の名所めぐりをしながら、桜と日本人について話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

勢いよく咲く強さ/一気に散る清さ

樹齢300年のヤマザクラ/花王の気品、吉野山

400 ――奈良に春の訪れを告げるのは東大寺の近くにある氷室神社の枝垂れ桜です。

 小さな神社ですが、平城京の昔から氷の神をお祀(まい)りしていて、毎年5月1日には、高さ1㍍ほどの氷柱に鯉と鯛を封じ込めて神前に供える献氷祭があります。同社の門を覆うように咲く樹齢400年の枝垂れ桜が早くも3月末頃には満開になり、うっとりするほど見事です。

 そこから奈良公園を10分ほど歩くと、20年に一度の式年造替を記念して5月末まで国宝の本殿が公開されている春日大社でも、南門にかかるピンクが少し濃い枝垂れ桜が満開です。法隆寺夢殿の枝垂れ桜も、大講堂横のソメイヨシノより早く咲きます。

 少し遅れて満開になり、奈良市民が好んで散策するのが市中心部を流れる佐保川沿いの桜並木で、大和郡山市の境付近まで約2千本のソメイヨシノが両岸に咲き誇ります。この桜の植樹の始まりは、幕末のロシア外交で外国奉行として手腕を発揮した川路聖謨(かわじとしあきら)によるものです。佐保川には、江戸末期に奈良奉行を務めた川路が植えたと伝わる樹齢160年を超える「川路桜」が4本ほど現存しています。

 川路は有能なだけでなく誠実で情愛深く、歌集を残すほどの文化人で、奈良の人たちの目を楽しませようと、若草山麓から奈良公園、そして佐保川沿いに桜を数千本植えたと伝えられています。

 しかし、井伊直弼(なおすけ)が大老に就任すると、徳川将軍の世継ぎ問題をめぐり、南紀派(家茂)と一橋派(慶喜)の闘争が起こります。奈良奉行時代に勤王家との交流があった川路は一橋派に組み入れられたため、南紀派の勝利後、安政の大獄で井伊に罷免され、将来を悲観し、江戸城内で拳銃自殺しました。佐保川の桜を見ると、はかなく散っていった川路の最期が思われます。

 ――万葉集に桜が詠われているのは。

 万葉集に登場する植物は約170種で、上位から萩、梅、たへ(コウゾなど)、ぬばたま(ヒオウギ)、松と続き、桜は8~9位です。「あしひきの山の間照らす桜花この春雨に散りゆかむかも」(作者未詳、巻10―1864)は今の人たちと同じ感性です。

 1位の萩は、高円山麓にある白毫寺(びゃくごうじ)が萩の寺と呼ばれるように万葉人の身近にあったからで、2位の梅は中国文化の影響でしょう。本居宣長が『玉勝間』に「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞えぬ事なり」と述べているように、桜が花の主役になるのは、菅原道真の進言で遣唐使が廃止され、国風文化が盛んになる平安中期からのようです。

 もっとも、『古事記』のコノハナサクヤヒメという神は、桜の花のように美しい姫で、富士山に桜の種を蒔(ま)いたとも伝わっていますから、日本人は古来から桜を愛(め)でていたことが分かります。日本人が桜を好むのは、満開の見事さと散り方の潔さにあると思われます。

 一方、コノハナサクヤヒメは天孫降臨したニニギの妻となり、2人の子(海幸彦と山幸彦)を産んだ時には、自分の子かと疑うニニギに対して、産屋に火を放って出産し、身の証しを立てたほどの強い女性です。桜にはそうした強さと清さが併存しています。勢いよく咲いて、やがては衰え、散っていく、そんな桜に日本人は自分の人生を重ねてきたのではないでしょうか。

 ――3月下旬、花会式が営まれた薬師寺には、里帰りした持統桜があります。

 薬師寺は天武天皇が、後に持統天皇になる皇后の病気平癒を祈願して建立を発願し、持統天皇の時代に本尊の薬師如来が開眼、文武(もんむ)天皇の時代に飛鳥で完成した後、平城遷都に伴い現在の西ノ京に移されました。

 皇位を草壁皇子の第一子、孫の文武天皇に譲った持統上皇は、壬申の乱で大海人(おおあまの)皇子(後の天武天皇)を支えた伊勢、三河、尾張を行幸され、桜に霞む三河富士・村積山(むらづみやま)(今の岡崎市奥山田)を愛で、ここに枝垂れ桜を植えられました。

 その名を持統桜といい、その桜から取られた若木が2009年、薬師寺境内に移植されたもので、優美に咲いています。

 ――大和高原の宇陀市には又兵衛桜があります。

 大坂夏の陣で活躍した後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説があり、その屋敷跡にある樹齢約300年の枝垂れ桜が「又兵衛桜」と呼ばれています。4月上旬に満開になり、後ろに広がる濃いピンクの桃の花、岸辺の菜の花の黄色とのコントラストが鮮やかです。

 ――桜と言えば吉野です。

 吉野山には古来、ヤマザクラを中心に約200種3万本の桜が密集しています。一目で千本も見えることから「一目千本」と言われ、麓から下千本、中千本、上千本、奥千本が、4月初旬から末にかけて順番に開花するので長く楽しめます。

 「ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行の庵があるのは奥千本。西行はここで3年間桜に埋もれるように暮らしました。望月とは旧暦2月15日、釈迦が入滅した日で、実際に西行が河内で亡くなったのは1日後の2月16日ですから願いがかなったと言えます。

 死後について「ほとけには桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」という歌を残しています。

 ヤマザクラは樹齢が300年ほど保ち、花姿は気品に満ちていて、花王や王花と美称されました。樹皮は暗褐色で横縞が入り、光沢があって大変美しく、小箱の外張りなどに用いられ、材は堅く美しい特質から版木や細工物、家具などに利用され、花は桜茶(湯)、葉は桜餅、果実のサクランボは食用にされるなど暮らしに溶け込んでいます。

 本居宣長は「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花」と詠い、何回も吉野を訪れ、自分の墓にヤマザクラを植えるよう遺言しました。

 ――最後に咲くのが八重桜です。

 平安中期の女流歌人・伊勢大輔(いせのたいふ)の歌「いにしへのならのみやこの八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の「奈良の八重桜」は個別の品種で、奈良県と奈良市の花です。品の良い小ぶりな花が特徴で、4月下旬に開花し、奈良公園にも多く植えられています。

 ――片岡さんは小原流ですが、そもそも華道の始まりは?

 仏教で仏前に花を供えていたのや、神道の神祭りに常盤木が神の依代(よりしろ)として挿し立てられていたのが始まりなどとも言われています。室町中期、京都六角堂の僧侶によって確立されたのが華道池坊で、池坊から小原流は独立し、盛花という形を創案しました。桜を主とした生け花は、流派を問わず春の到来に華やいだ心なごむ作品ばかりです。

 日本人が愛し、祈りを託してきた桜の大きな力にあやかって、無病息災、平和な世でありますようにと願わずにはいられません。

 小原流一級家元教授の資格を持ち、万葉花寧豊会を主宰する片岡寧豊さん。2010年の平城遷都1300年祭では「花と緑のフェア万葉華しるべ」7カ所で花のオブジェと案内板作成文を担当。普段は生け花の指導のほか、文化講座や花巡りの講師として活躍するほか、毎年、奈良市写真美術館で「万葉の花いけ花展」を開いている。大阪花博や淡路花博など国内外に出展。中国昆明花博やオランダ花博では国際館・日本館に出展し、生け花の実演を披露した。奈良と友好・姉妹都市の西安、慶州、ベルサイユなどを訪れ、文化交流にも努めている。花と植物の写真が満載の『万葉の花』は四季折々の奈良を訪ねるのに最適。