死刑がなかった平安時代 大妻女子大学比較文化学部教授 上垣外憲一氏に聞く

 高野山は今年、開創1200年を迎える。空海は唐からもたらした真言密教で旧仏教をはじめ神道や修験道を総合し、満濃池改修などの社会活動も行った。平安時代の基礎となった空海の思想は日本仏教史にどう位置づけられるのか、岩波講座『日本の思想』第三巻「内と外」で空海を高く評価した上垣外憲一教授に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

出家による救済措置/「平安」思想の基に空海

行基の社会事業も継承/悪をも含む包容力

 ――日本仏教史における空海の役割は?

400 空海の主著とされる『秘密曼荼羅(まんだら)十住心論』は仏教全体を扱っており、それらすべてが空海の思想で、密教もその一部でしかない。空海は当時最高の思想として仏教を学んだのであり、儒教や道教、神道も否定していない。

 『十住心論』は人間の精神の在り方の階梯(かいてい)を説いており、第一段階から第三段階は世俗の儒教は道教の教えで、第四、第五は小乗仏教(上座部仏教)、第六は唯識を説く法相(ほっそう)、第七は空を説く三論、第八は法華、第九は華厳で、第十が真言密教だとする。空海の思想の特徴はこうした総合性にある。また、中国語が自由に話せ、中国文化の中で自在に活動できた空海は、文化相対主義を体現していた。

 さらに、朝廷の要請により讃岐の満濃池の改修を指揮するなど、道昭や行基(ぎょうき)の社会事業を継承し、思想と実践の総合という点でも空海は際立っている。

 ――平安時代の思想に密教が大きな役割を果たした。

 『源氏物語』は前半は密教、後半は浄土教で書かれているとされる。物語が書かれた平安中期の1000年頃は、人々の信仰の主流が密教から浄土教へ移る時期に当たる。前半は、醍醐寺が隆盛したように密教が圧倒的で、後半は浄土教になるが、最高仏の阿弥陀如来は密教の八体仏(千手観音菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来)の一つだから、浄土教も密教の一部と言えよう。浄土教が密教から独立したのは親鸞の時代になってからで、それまでは密教の中の浄土教だった。

 鎌倉時代も密教は非常に盛んで、禅宗が密教より主流になるのは鎌倉時代末から室町時代初めだ。中国では唐代の廃仏で密教が滅んでしまうので、日本に密教が残り、栄えたことはなおさら意義深い。

 密教には豪華な装具や仏像が必要だから、政権に弾圧されると弱い。禅は悟りだけで教えが継承されるため弾圧に強い。禅定(ぜんじょう)は密教でも重視されるので、空海なら禅も密教の一部だと言っただろう。

 密教が人々に受けたのは、「阿字観」のように、サンスクリットの最初の音「ア」を大日如来の象徴とし、「阿」の字を見ながら観想することで悟りに至る方法を開発したことがある。これも、曼荼羅を見て悟りを得るのと同じように修行の簡略化で、それが「南無阿弥陀仏」の念仏で救われるとする浄土教に引き継がれた。浄土教や禅宗は密教の一部を強調したものだ。

 ――真言密教によって神仏習合が進んだ。

 空海は大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされ、『三教指帰』の序文には、阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで虚空蔵求聞持法を修したことが記されている。吉野の金峰山(きんぷせん)や四国の石鎚山などでも修行しているが、そうした修行法も中国から伝わった可能性がある。播磨の法道(ほうどう)仙人は、インドから6~7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由し、日本へと渡ってきたとされる。東アジアに広がる名山信仰が日本にもあり、中国で道教と習合した仏教が日本に入って来たので、道教の山岳信仰も引き継いでいる。

 それがユダヤ教やキリスト教、イスラム教の一神教と仏教が違うところだ。もっとも、仏教は多神教ではない。キリスト教世界で汎神(はんしん)論は無神論なのだが、仏教は汎神論に近く、最終的な真理は一つだとする。汎神論の神は虚空的な存在で、一神教のような人格神ではない。唯一絶対の存在は認めるが、そうでないものを排除する考えは全くない。

 曼荼羅には、如来や菩薩の外に天女や人の死骸を貪り食う鬼なども描かれていて、人間社会の悪も一概には否定されていない。キリスト教だと悪魔の申し子だとして滅ぼされるものも、曼荼羅に入っている。悪も含む包容力が空海の卓越したところだ。

 ――最澄は南都仏教から批判されるが、空海はむしろ南都仏教を味方にした。

 『十住心論』は旧仏教も包含している。最澄のように「法華経」が最も優れているとは言わず、その意味では最澄は狭い。その後、比叡山で学んだ宗祖から狭い宗派が生まれたのは、最澄の伝統だろう。キリスト教も聖書に書かれていることを絶対視するが、空海はそんな風には考えない。

 唐で空海が高く評価されたのは、旧仏教を完全にマスターしていたからだ。空白の十年の空海は山林修行もしたが、相当部分は奈良の大寺院で仏教の基礎理論を学んでいたはずだ。一番入り浸っていたのは唐招提寺で、中国語を学んでいた。興福寺では法相宗を、大安寺では三論宗を、東大寺では華厳宗を学んでいた。

 父方の伯父の佐伯今毛人(さえきのいまえみし)は東大寺の造営長官も務めたので、奈良では影響力が大きい。母方の伯父・阿刀大足(あとのおおたり)は桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だったので、彼を通して皇子から話があれば、どこの寺にも入れただろう。

 ――帰国した空海は2年間、都に入れなかった。

 政治的な理由からだと思う。桓武天皇の後を継いだ平城(へいぜい)天皇にとって、その権威を脅かす伊予親王に近い空海は、朝廷から忌避される状況にあった。空海が帰国した翌807年に伊予親王は失脚し、自害に追い込まれている。当時、修法には人を殺す力があると思われていたから、力を付けた空海が都に入るのを拒んだのだろう。

 その後、病気がちの平城天皇は、弟の嵯峨天皇に譲位するが、復位を謀って平城京に朝廷を開き、戦に敗れてしまう「薬子(くすこ)の変」を起こした。空海は嵯峨天皇につき、鎮護国家の大祈祷を行っている。

 謀反の罪で幽閉され、無実を訴えて自殺した伊予親王の供養について、空海と嵯峨天皇には同志的な連携があったと思う。空海が天皇の命で供養の願文(がんもん)を書いたのは伊予親王だけだ。

 薬子の変に敗れた平城天皇は空海によって出家している。平城天皇の皇子・高岳(たかおか)親王も、嵯峨天皇が即位して皇太子になるが、薬子の変で皇太子を廃されると、出家して空海の弟子・真如になった。嵯峨天皇の敵に当たる人物も空海は受け入れている。高野山の墓所に歴史的な敵対者が対等に墓を並べているのは、空海が存命中にそれをやったからだろう。

 古代から政権争いに敗れると皇族も殺されていたのが、平安時代には出家すれば助かるようになった。そう変えたのが空海だ。

 ――今の時代が空海の思想に学ぶとすれば。

 貴族階級に限ってではあろうが、平安時代に死刑がなかったのは、大きな意味がある。その「平安」と呼ばれる時代の思想の基になったのが空海だと思う。

 上垣外(かみがいと)教授は、東京大学大学院を修了後、ソウル大学に留学し、『三国史記』と『古事記』『日本書紀』を比較して『倭人と韓人』(講談社学術文庫)を著した。1989年には『雨森芳洲』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞。『空海と霊界めぐり伝説』(角川書店)で初めて空海を論じ、それが岩波講座『日本の思想』全8巻の第3巻「内と外」の「海を渡った人びと」に結実している。