道義国家の礎築く西郷の教え 西郷隆盛の曾孫 西郷隆夫氏に聞く

日本人の心

 「敬天愛人」で知られる西郷隆盛の遺徳を偲び、曾孫(ひまご)の西郷隆夫氏が縁深い福岡市近郊で西郷家に伝わる秘話を語った。10月11日、福岡南洲会の國分友貴氏(ブルーコンパス)が主催する「あすなろ塾」初回講演で隆盛公の伝えたかった日本人の心や道義国家・日本の再建について講演内容をまとめた。

郷中教育、女子道が底流に/異年齢による学び合い

ヒゲ生やさず清潔感保つ/「日本人の誇り」持て

400 西郷隆盛は生涯で2度、正式結婚している。初婚は伊集院兼寛(軍人)の姉の伊集院須賀。結婚生活は約2年だった。当時、西郷は結婚しても江戸で働いていて薩摩にいる兄弟、家族の面倒をすべて須賀さんがしていて、たまりかねた須賀さんの親が実家に戻した。

 「大変申し訳ないことをした。今後、結婚はしない」と言ったが、奄美大島に潜居を命じられた後、正式な結婚ではなく、奄美の女性・愛加那(あいかな)と所帯を持った。愛加那さんとの間に一男一女をもうける。

 その後、奄美大島から薩摩に戻ると、岩山イトさんと再婚した。私自身はイトさんの長男・寅太郎(ドイツ留学の陸軍軍人)が祖父。次弟は午次郎(うまじろう)、三男は酉三(とりぞう)。名前は生まれ年の干支(えと)をそのままつけた単純なものだった。

 愛加那さんの長男・西郷菊次郎は台湾の宜蘭で宜蘭庁長として「西郷堤防」を建設して治水事業に貢献し、京都市長としても活躍。宜蘭時代、台湾では菊次郎の名前である菊がブームになり、郷中(ごじゅう)教育を台湾でも広めた。

 明治天皇が西南戦争後、西郷隆盛の子供たちのことを非常に気にしていて、隆盛の弟・西郷従道(つぐみち)を通じて寅太郎にドイツ留学を受け入れるため上京するように言い、上京したが、西南戦争で官軍と薩摩軍に分かれて戦った従道の言うことには一切耳を貸さなかった。困り果てた従道は勝海舟に頼んで説得してもらう。

 「私のような書生がドイツに行く器でない」とノラリクラリ返答したことに烈火の如く江戸弁で「父親のように一旗揚げないのか。やれるものならやってみろ」と饒舌(じょうぜつ)にまくし立てて一喝し、一言「行かさせていただきます」と答えたという。その後、13年間、ドイツに留学し、ポツダム陸軍士官学校などで学ぶ。帰国後、ドイツ語が堪能ということで千葉県習志野の捕虜収容所で所長に就任した。

 上野の西郷隆盛銅像についてイトさんが「これはうちの人じゃなか」と除幕式で言ったのは、着ている絣(かすり)が現代のジャージみたいなもので、西郷さん本人が外に出歩く時にはこうではなかったことを意味したのに、風貌自体が似ていないという風聞になっているが、そうではない。どんな目下の人が来ても、きちんと羽織袴(はかま)に着替えて接していたという。

 薩摩には古来、女子道があった。鹿児島は男尊女卑で男性にとっては居心地が良いと思われがちだが、そうではない。女子道によって女性の方が武士道精神が強い。母親が息子を育てる時、髪を結いながら常に長男のあるべき姿を説き続ける。物干しも、衣服も別々。長男の頭を母でもまたいではならない。ここぞと言う時は、死んでこい精神で送り出し、日ごろは夫に対して一歩も二歩も下がって従い、手のひらの上で転がす。

 薩摩では異年齢による学び合いの郷中教育が行われ、「自分に負けるな」「嘘(うそ)はつくな」「弱いものをいじめるな」というシンプルな掟(おきて)があった。ドイツでも郷中教育を参考にした教育が行われている。もっと日本でも道徳で教えるべきだ。西郷も郷中教育の強い影響を受けている。

 西郷が使う「敬天愛人」は17世紀に清朝4代皇帝の康煕帝が作った言葉と言われている。儒教とキリスト教が一緒になったような言葉。本人はキリスト教徒ではないが、沖永良部島に流された時、いろんな書物を読む中でキリスト教にも触れた可能性がある。西郷隆盛は書物を一冊も遺さず、知行(ちこう)合一を大切にしていた。

 明治維新は世界に誇れる意識改革だった。戊辰戦争で約8100人、西南戦争で1万1000人が死亡。当時、多く見積もっても約3万人の日本人が亡くなった。フランス革命では100万人が犠牲となり、ロシア革命や中国の長征、文化大革命ではもっと多くの人々が犠牲になっている。一般人が一人も犠牲にならなかったのは西南戦争だけだ。

 西郷さんが言っていた道義国家というのは、日本では、70%ぐらいができているのかもしれない。残りの30%は日本人が何かを忘れている。西郷さんは、それを「誇り」というだろう。父や祖父は常に「日本人としての誇りを持て」と言っていた。「誇りを持つ」とは、子供たちが一人前になった時にできること。現代の親は子供たちを独り立ちさせることをひどく拒否しているかに見える。

 西郷隆盛の妻・イトさんは大正11年に他界していて、父は大正2年生まれ。9歳まで祖母のイトさんの話を直接聞いている。「家の中ではバタバタ走り回るものではない。お父さんは夜遅く帰ってきても、抜き足差し足でそっと布団で寝ていた」

 父親から「西郷さんは何が偉いか一言で言ってみろ」と尋ねられたことがある。「明治維新をつくった」などと答えたが、ダメだと言われる。ヒントは何かというと「見た目で分かる」と。降参して答えを聞くと、「西郷さんはヒゲを生やさなかったことだ」と話してくれた。

 薩摩では大久保利通や村田新八、桐野利秋(中村半次郎)でさえヒゲを生やした。西洋に影響され、見た目を気にして清潔感を忘れる日本人ではいけないということを言いたかったのではないか。

 西郷さんの言葉は庄内藩の人たちによって「南洲翁遺訓」でいろいろ遺されている。鹿児島には何も残されていない。名を残さず、功績を残さずという島津藩の考え方がある。すべて殿様のため、われわれは偉くなってはいけない。

 西郷さんが生まれ育った鹿児島市鍛冶屋町は約1万坪ぐらいの広さで、大山巌、東郷平八郎、西郷従道、山本権兵衛など続々と偉人が生まれた。総理大臣が3人誕生した。西南戦争から日清・日露戦争に至るまでの軍人でわずか1万坪の場所から輩出されたのは注目すべきことだと思う。

 西南戦争後、長州の人々が政権を握って以降、西郷さんの理想が具現化できずに終わってしまった。あまりに偉大な人々が西南戦争で死んでしまった。西郷さんが80歳まで生きたら明治40年。勝海舟が他界したのが明治32年。今の日韓問題、日中問題は複雑だが、もし、明治40年まで西郷さんが生きていたら、一体どうなっていたのだろう。もっと住みよい国になっていたのではないか。日本人の教育、日本人の誇りを大切にしていってほしい。

 さいごう たかお 西郷隆盛の長男・寅太郎の孫。1964年、神戸市生まれ(本籍は鹿児島市武町)。中京大学法学部卒業後、大丸松坂屋食品部に入社。同社マネジャー、バイヤーを経て2009年に退社後、フェスティバロ社副社長。14年4月に株式会社開墾舎を設立。西郷隆盛が食していた豚肉料理を復活させた「西郷どんのからしぶた」の卸売販売を手がけている。西郷家二十四日会員、西郷南洲顕彰会会員、西郷隆盛公奉賛会理事。