被災地復興で見直される神社 生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

地域を支える神社の文化力

 東日本大震災の被災地では神事や祭りの復興が、被災者の人たちに力を与えている。阪神・淡路大震災で崩壊した社殿を再建し、「神社は地域のコミュニティーセンター」が持論の加藤隆久・生田神社名誉宮司もたびたび被災地を訪れ、復興支援に汗を流してきた。震災を機に見直されている神社の役割を、加藤名誉宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

祭りに精神的ケア効果/再生を通じて地域振興

鎮守の森は文化の総合体/地域の絆、再興のバネに

400 ――東日本大震災の被災地支援を続けておられます。

 来年は阪神・淡路大震災から20年で、同じように大震災に見舞われた者として、東日本大震災の被災地のことが人ごととは思われません。先日は津波で700人以上が亡くなった宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区に行ってきました。まだ建物は再建されておらず、復興が遅れています。丘の上にある湊神社は社殿が流されたので、仮社殿が建てられていました。

 ――福島に生田神社の御神火を贈ったのは?

 当社の職員がいわき市にある飯野八幡宮の飯野光世宮司と懇意で、鎮魂の祭りをする折、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けながらいち早く復興した生田神社の御神火を「復興の火」のシンボルにして祭礼を行いたいとの依頼がありました。そこで7月15日の大祓(おおはらい)に神前で神職が火をおこし、お渡ししました。

 ヒノキの板にヤマビワ製の心棒を立て、回転させると、摩擦熱で小さな火がおこります。するとおがくずをかけて火を移し、枯れ枝を燃やします。そうしてできた御神火をカイロに移し、いわき市に運びました。

 その御神火をたいまつに移し、平成23年7月18日と8月8日、小名浜の海岸で慰霊鎮魂・復興祈願の「千度大祓」が行われました。大祓の祝詞を神前で千回読み上げ、罪を祓い清める神事です。100人が10回読み上げると千回になります。

 ――被災から3年を経過し、被災者の心の復興が課題になっています。

 被災者の精神的なケアには、神社の祭りが一つの役割を果たせると思います。祭りはイデオロギーに関係なく、地域の絆を思い起こさせ、落ち込んでいる人々の心を奮い起こす効果があります。祭りは伝統的に地域の人々が助け合って守り続けてきたものです。神主や氏子総代をはじめ、神輿(みこし)の担ぎ手、囃子(はやし)方、食事を用意する裏方の女性たちなど、皆で助け合って行われます。

 老若男女が一つになり、それぞれの役割を演じることで、喜びを感じ、生きがいを覚えるのは、現代風に言えば社会福祉の原理です。

 ご縁や支え合いの絆の回復が、今の社会においては喫緊の課題になっています。日本社会では神社が伝統的にその役割の一端を担ってきたのです。

 神社は歴史的に地域のコミュニティーセンターの役割を果たしてきました。季節の節目に行われる祭りなどを通して、地域のつながりが受け継がれてきたのです。

 戦後は社会情勢の変化に伴い地域社会の構造や人々の価値観も変わりましたが、人々の絆や自然との調和を大切にする文化は、現代社会にもアピールするものがあります。

 ――自然環境の保護からも神道が見直されています。

 しばらく前までは日本も人間中心主義で、自然は人間がコントロールするものであり、万物にも神性を認めるのは遅れたアニミズムだとされていたのが、環境破壊が深刻になってきてから自然観が見直され、自然は征服するものではなく共生するものだという伝統的な自然観が広まっています。

 そうした中で、神社、神道の出番が来たと私は感じています。特に鎮守の森や祭りを通して、地域の再生、文化の継承を図っていきたいと思います。鎮守の森は、生産や信仰、芸能などを含む文化の総合体で、祭りの伝統を次の世代に継承していく中心的な場になるのではないかと思います。

 ――祭りが被災地の復興に大きな力を与えています。

 東日本大震災の被災地でも、古くから伝わってきた文化財の多くが失われました。過日、大阪で開かれた被災地の復興と文化財の役割を考えるシンポジウムでは、岩手県釜石市の伝統芸能「虎舞」が大きな被害を受け、存続が危ぶまれていたのですが、釜石の人間を元気づけるには虎舞しかないと信じて、瓦礫(がれき)の残る街で祭りを復活させた、釜石虎舞保存連合会の活動が紹介されていました。

 文化の複合体である祭りの再生を通じて地域の振興を図ることが、被災地復興の一つの鍵になっています。

 ――生田神社は何度も被災から復興し「蘇(よみがえ)りの神」と言われています。

 私の知る限りでも、わが家が昭和12年に岡山の吉備津彦神社からこちらに移ってきた翌年に神戸大水害に見舞われました。

 昭和20年6月5日には600発の焼夷弾が落ちて、社殿を焼失しました。そして、平成7年1月17日の阪神・淡路大震災では拝殿や石の鳥居が倒壊する被害を受けました。その都度、不死鳥のように復興してきたことから、「蘇りの神」と呼ばれるようになったのです。

 ――阪神・淡路大震災で倒壊した社殿を目の当たりにして、いかがでしたか。

 茫然自失の状態だった時に目に浮かんできたのが、「造営宮司」と言われた父親の姿です。「あなたは日ごろから神社は地域のコミュニティーセンターだと言っているではないか。神戸という地名の由来は生田神社を支える神戸44戸で、そんな神社を倒壊したままにしておいていいのか」という、父の声というか神の声が聞こえてきたのです。それが心の切り替えになり、復興に邁進(まいしん)するようになりました。

 新しい拝殿は地震で倒壊することのないよう、鋼管にコンクリートを詰めた最強の柱を立てる新工法を採用しました。伊勢神宮からは、昭和4年の式年遷宮で払い下げられた内宮(ないくう)の棟持柱が、その後、宇治橋の鳥居に使われ、次いで鈴鹿の関の鳥居になっていたのを下さることになりました。

 青年会議所をはじめ神戸市、兵庫県のいろいろな団体が復興に協力してくださいました。世界的に有名な立正佼成会が母体の東京佼成ウインドオーケストラが県に支援公演を申し出たのに、適当な場所がなく困っていたので、当社の境内に仮設の舞台を作り演奏会を実現させました。毎年正月に必勝祈願に来ているオリックスはこの年、イチローの活躍もあって、パ・リーグで優勝しました。

 すると、前年に神戸でコンサートをしていた、米国のロック歌手シンディ・ローパが「もう一度神戸に行きたい」と言うので、2月の節分に来てもらうことにしました。境内は1万5000人くらいのファンで埋め尽くされ、シンディ・ローパは着物を着て、「復興、がんばって神戸!」と豆撒(ま)きをやりました。

 ――生田神社の復興に勇気づけられた人も多い。

 神道には「常若(とこわか)」という思想がありますが、祭りや芸能で人々がまず心の復興を果たし、それが社殿の再建につながっていったのです。生田神社は神戸のシンボルの一つですから、それが復興していく姿から力を得た市民の人たちも多かったと思います。

 加藤名誉宮司は昭和9年、岡山市生まれ。國學院大學大学院神道学専攻修士課程を修了し、神戸女子大学教授などを経て生田神社宮司となり、現在名誉宮司。神社本庁長老、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、神仏霊場会顧問としても活躍している。宮司とともに学者として神社神道や歴史民俗の調査研究に取り組む。生粋の神戸っ子で、最近、愛してやまない神戸の歴史を、一次資料を基に分かりやすく紹介する『生田の杜とミナト神戸の事始め』を上梓(じょうし)した。