空海がつなぐ日本と中国 高野山大学名誉教授霊宝館館長静慈圓師に聞く

四国八十八ヵ所霊場開闢1200年

 今年は空海が四国八十八カ所霊場を開いてから1200年に当たる。空海の原点は入唐にあると考えた静慈圓師は1984年、空海が804年に漂着した福州(赤岸鎮)から西安(青龍寺)まで2400キロを踏破し、それを「空海ロード」と名付けた。今、豊かになった中国で空海が信仰と思想の両面から見直されているという。 (聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

日本を出て自分を開いていけ/高野山で研究する中国人も

密教のトップ恵果の継承者に/仏典解読へサンスクリット語学ぶ

400 ――空海ロードを歩こうと思ったのは?

 長年、空海の書いたものを研究して気付いたのは、空海は入唐によって国際人になったというのに、空海以後の弟子や研究者の誰も、空海が命懸けでたどった道を行っていないことだ。その体験が空海に迫ることになると考え、行動を起こした。

 空海が漂着した福建省の霞浦(赤岸鎮)から長安(西安)までは約2400キロで、四国遍路の約2倍。しかし当時、福建省から浙江省杭州への道は全て未開放地区で、自由に旅行することができなかった。

 1984年に弘法大師の1150年御遠忌があり、その記念行事として「空海・長安への道」の踏破を高野山大学に申請したところ、記念行事の総裁が当時の中曽根康弘首相で、日中友好の観点からこの事業に注目し、胡耀邦総書記にも協力を依頼してくれた。日中政府のトップの話し合いで、諸問題は一挙に解決し、全路程を行けることになった。当時、高野山大学助教授だった私を団長に僧侶ら5人と毎日新聞の記者3人が、空海から1080年ぶりに入唐の道をたどった。

 ――先生は著書『空海入唐の道』で、空海自身が中国によって育てられたと書いている。

 空海当時の日本文化の元は中国にあり、空海は中国文化を学ぶことで育てられ、さらに現地で学問を深めた。私も中国の人たちによって、空海の偉大さに目覚めさせられたことが大きい。

 空海研究をする中で気付いたのは、空海が漢字文化圏に生きていたことだ。本場の中国で学問的に共感する人たちと出会い、民族の伝統文化の深さ、広さを感じたのだろう。学問や書で中国の人たちと交流すると、これはすごいという人たちに出会う。空海には当時の中国でも一流と評価される学識や書があったので、私以上の感動的な出会いをしたと思う。中国の人たちも、日本に空海のような人がいることを知って驚いている。当時の長安は世界一の国際都市で、空海は仏典を読むために、インド人にサンスクリット語を学んでいる。

 ――恵果が空海を密教の継承者に決めたのは?

 弟子に選んだのは理屈を超えた宗教的な感性からだろう。密教の頂点にいる恵果には、その内容を正しく継承してくれる人がいつ現れるかが最大の関心事だった。その思いに最も共鳴したのが空海だったので、弟子にしてから短期間で、継承者にすると決めた。

 ――空海の留学当時は盛んだった密教が、武宗の廃仏によって滅んでしまう。

 密教の法の継承は、師から弟子への灌頂によって伝えられる。灌頂には道場や種々の法具が必要なので、それらが廃仏で失われると、灌頂ができない。それが密教が途絶えた直接的な原因だ。禅宗や浄土宗などは後に復活している。

 武宗が仏教だけでなく、当時盛んだったマニ教やゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教も弾圧したのは、道教に傾倒したからである。武宗はじめ中国の皇帝が宗教に期待した第一は、国と王を守る呪術的な修法で、密教が入って来る前からそれを行っていたのが道教だった。その立場を道教が取り戻したわけで、その後、中国の密教は教理的に道教に同化されていったとも言えよう。

 中国2000年の仏教史の中で、最も爛熟したのは唐代の130年間で、その時に合わせて入唐した空海が、密教を日本に持ち帰ったので、密教の法統が今も受け継がれているのである。

 ――中国での密教復興の動きは?

 近代になって密教の復興を志した中国僧が、上海市にある静安寺の持松法師で、1921年に来日し、高野山で密教を学んだ。戦後は上海仏教協会会長など歴任したが、66年から10年間続いた文化大革命で強制的に還俗させられ、72年に没した。中国の大規模な廃仏を「三武一宗の法難」と呼ぶが、文革は5番目の法難と言えよう。

 私は空海が中国からもらってきた密教の里帰りをしないといけないと考え、中国人の弟子を3年間育てた。空海や密教に関する資料も、中国の研究者や僧たちに提供している。

 修行大師像を中国人が拝んでいるので、現世利益からだろうが中国人の間にも弘法大師信仰が広まっている。像の多くは日本の信者が寄贈したものだが、最近は中国でも造られている。

 中国では各地に仏学院があり、僧たちはそこで学んでいる。大学に進む僧もいて、北京大学や復旦大学などの大学院を出て寺の住職になる若者も増えている。

 日本での中国の話題は経済や軍事が多いが、意外と知られていないのは仏教経済の発展だ。各地の寺院が立派に再建され、信仰と観光の両面で賑わっている。豊かになった中国は民族としてのプライドを求めるようになり、唐代文化が再評価されるようになった。唐代文化の象徴が密教で、それを現代にまで伝えた空海が注目されている。

 ――空海入唐の道を歩いて感じたことは。

 やはり空海の気持ちになれることが大きい。入唐した空海に比べると、日本人は日本流でありすぎるように思う。もっと日本を出て、自分を開いていかないといけない。世界に飛び込んでいかないと、向こうの人たちの気持ちが分からない。

 ――空海は日中の文化的なシンボルになる。

 空海の書き言葉は漢字で、漢字文化圏で本格的に研究されると、日本人のとは違う空海像が出てくるかもしれない。私はとりあえず、空海を日本文化圏から漢字文化圏に出さないといけないと思っている。空海が書いていた漢字は唐の前の六朝時代の漢字で、それに詳しい人は中国人に多い。日本語で空海を研究する危うさもあるので、研究者としても中国に行く必要がある。

 ――中国の宗教政策は?

 法輪功のように人が多く集まると監視の対象になる。経済の改革開放に伴い、宗教活動への監視も緩やかになり、僧たちの活動も認めるようになった。近年は、宗教活動によって外貨を稼げるようになったので、それも後押ししているようだ。

 日本のような檀家制度はなく、信者として寺に来ており、意外と若者が多い。寺で葬式や法事をする人も増えている。昔は華僑からの寄付で寺が立派になっていたが、近年では国内の信者で復興している。

 ――密教を学ぶ中国人にとって高野山は頂点にある。

 近年は高野山に住み、空海を研究しながら修行している中国人が数人いる。香港や台湾からも来ている。私は仏教東漸に対して密教西漸論を書いたこともある。密教研究は中国で盛んになり、国際学会も開かれているので、日本人はもっと関心を持つべきだ。

 1942年に徳島県の寺に生まれた静師は、小さい頃から四国八十八カ所霊場に親しんできた。18歳で高野山大学に入り、50年以上、空海研究を続けている。7、8年前にやっと分かったのは、どんなに研究しても空海を乗り越えることはできないということで、以後「空海を研究することはやめ、信仰することにした」と言う。空海入唐の道を踏破した84年からは毎年、信者らと「空海ロード」を巡拝し、日中の民間仏教交流に尽力している。また、中国での空海研究会の設立に協力し、空海に関する国際学会に日本からの参加を呼び掛けている。高野山にある清涼院の住職で、貴重な史料や宝物から「山の正倉院」といわれる高野山霊宝館館長でもある。