横浜の女傑、富貴楼のお倉 元関東都市学会会長 横濱プロバス倶楽部副会長 中村實氏に聞く
明治の日本を支えた女子力
坂本龍馬の妻お龍や木戸孝允の妻松子(幾松)など、幕末維新の志士たちを支えた女性たちは多い。明治新政府の政治がまだ安定しない時代、現在に続く料亭政治の場を提供することで、国づくりに一役買ったのが横浜富貴楼の女将お倉である。横浜の歴史に詳しい中村實(まこと)さんに、開港間もない横浜とお倉について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
断じて守った客の秘密/料亭政治の場として重宝
陸奥宗光、伊藤博文らが常客に/岩崎弥太郎に金の使い方説教
――料亭政治の始まりとされる横浜富貴楼を開いたお倉はどんな女性か。
お倉(本名斎藤くら)の伝記を書いた澤地久枝は、伊藤博文が日本初の内閣の組閣時に閣僚候補者への使者を務めたことを挙げ「お倉が一代の女傑の名をほしいままにしたのは、この伊藤の公私両面にわたる機微な内情に通暁しているという世間の認識のせいである」と書いている。
ところが、お倉がしたことはいくら調べても資料が残っていなかった。客の秘密を洩(も)らさなかったからで、だからこそ料亭の女将として多くの政財界人から信用された。
横浜港開港50周年の明治42年(1909)に、お倉自身が「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)で思い出話を語っているが、伊藤博文や清国の丁汝昌(ていじょしょう)、岩崎弥太郎、九代目市川団十郎など有名人約30人の名を挙げながら、冒頭に「営業中にあったことは話せない」と断っている。
帝国議会の書記官長を務めた林田亀太郎は、「女将お倉は自ら政治上の運動遊説に客の間を説き回っただけでなく、其の数奇な前半生に得た世故の経験と、社会眼とは、細かい事に意の届かぬ当時の大臣参議のために随分力強い相談相手であった」と書いている。難しい事柄の相談や調停もしていたのである。
「横浜貿易新報」の編集長を務め、後に三井銀行の支店長になった高橋義雄は、「伊藤、井上(馨)、大隈、山県等の大官を手玉に取り、政府の属僚役人をして、其鼻息を窺わしめた辣腕は、後人の企て及ばざる所であり」とお倉を評価している。
――どんなふうにして富貴楼を開いたのか。
お倉は天保8年(1837)に江戸の谷中茶屋町(現在の台東区谷中6丁目)で鳶(とび)職人の家に生まれ、6歳の時に家族が離散し、浅草寺境内の茶屋で働き看板娘となる。18歳で鉄砲鍛冶の松屋鉄五郎と結婚するが、借金のため20歳の時に新宿で遊女となる。武士に身請けされ、幕末の争乱期に遊び人の亀次郎と一緒になり、大坂に行って芸者になった。
明治2年(1869)に横浜に来て芸者屋を営むようになる。
お倉に料亭を開かせたのは実業家の田中平八だ。現在の長野県駒ケ根市に生まれた平八は、丁稚奉公のあと魚屋になるが、米相場に手を出して大損。江戸に出て吉田松陰や清河八郎らと交わり、水戸の天狗党の乱に加わって投獄された。
その後、平八は、慶応元年(1865)に横浜で大和屋の応援を受け「糸屋平八商店」を開業し、生糸の貿易をはじめ為替取引や米相場などで巨利を得、「天下の糸平」と呼ばれるようになった。お倉の上客だった平八は、お倉の手腕を見込んで、スポンサーになるから料亭を持つよう勧め、お倉は現在の横浜市中区尾上町に料亭富貴楼を開いた。
お倉は平八の娘を身籠るほどの仲だったが、ドル相場に失敗して意気消沈している平八を元気づけるなど機転も利いた。お倉に励まされ、ドルを売って大儲けした平八は、お倉を生涯の恩人だと思うほどになる。
客あしらいに長けていたお倉は、「客の手が三つ鳴ったら料理を辛くする」など、料理にも細やかに気配りした。江戸っ子が手を三つ鳴らすのは神への拝礼で、女中を呼ぶには二つしか鳴らさない。店で三つ手を鳴らすのは田舎の客だから、料理の味付けは濃くすると、客の舌に応じたおもてなしである。料理がうまく、融通が利き、「客の秘密は守る」富貴楼は、やがて料亭政治の場として重宝されるようになる。
――富貴楼が横浜にあったことも幸いしたのか。
東京では激しい政治闘争が繰り広げられていたが、新橋から鉄道が通じた横浜は、そこから若干離れて絶妙の距離にあったのだろう。
新政府の役人も商人の力を借りなければ仕事ができないことも多かった。平八が懇意になったのは大蔵省の井上馨で、明治4年(1871)の廃藩置県で藩の負債を引き継いだ政府は、外国商館からの高利の借金を早く返す必要に迫られていた。井上はその交渉でたびたび横浜を訪れ、返済に使う洋銀を平八に秘密裏に買わせていた。
そうした情報を交換し、作戦を立てる場所として料亭が必要になったのである。井上の意図を酌んだ平八が、お倉に店を開かせると約束した。井上は部下を引き連れ何軒もの商館と交渉していたので、富貴楼は大蔵省の出張所のようになった。
ドル買いの後で平八は、「井上(馨)さんが富貴楼で大肌脱ぎになって、からだの古疵(ふるきず)を女性たちに見せ、刺客に襲われたときの自慢話をしていると思ったら、そっと手をまわし、南仲通りでだれかにドルを買わせていた」と話したという。幕末維新の時代の雰囲気がまだ生々しい。
井上との関係で、明治4年に神奈川県知事になった陸奥宗光も富貴楼に来るようになり、後任の大江卓も役人たちを連れてよく訪れた。伊藤博文が顔を見せるようになったのは、岩倉遣欧使節団に加わって帰国した明治6年(1873)からで、やがて、大隈重信、松方正義、後藤象二郎なども馴染み客になる。
伊藤博文は話し好きで、伊東巳代治や金子堅太郎、井上毅などの若手や女中を相手に、洋行話などを話し続けたという。お倉は、これほど魅力のある議論のできる政治家はいないと感心している。岩崎弥太郎も上客だったが、お倉は金の使い方で説教するなど、男たちを立派な人間に育てようと親身になって対していた。
――いろいろな人がお倉の思い出を書いている。
大久保利通の次男牧野伸顕(のぶあき)は明治11年(1878)、16歳の時に41歳のお倉に会い、「一種の女傑で、客など一目でそれがどういう人間かというようなことを見抜いてしまった」と書いている。6、7歳の頃、お倉に会った小泉信三(父信吉(のぶきち)は当時、横浜正金銀行本店支配人)は、「色が白く大柄で、舞台効果のある顔、姿であった」(『私の横浜時代』)と記している。
――当時の横浜は女性が活躍しやすかったのか。
横浜は女性を大事にして、学校も女学校が先にできた。明治3年にフェリス女学院、4年に共立女学校、5年に雙葉学園、その後、ブリテン女学校(成美学園)、英和女学校(捜真女学校)が創設された。いずれもキリスト教主義教育校で雙葉だけがカトリック、後はプロテスタントだ。
男子の学校は、明治15年(1882)に初めて横浜商法学校(後の横浜商業学校)が、福沢諭吉の肝煎りで生糸商人らによってつくられた。当初、生徒より教師の数が多いほど、男子の教育には熱心でなかった。そんな横浜の空気もお倉さんが活躍できた理由だろう。