「不自由展」再開、芸術展の汚点となった


 抗議が続く中、限定された再公開を強行する意義はどこにあるのか。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」のことだ。

 初日(8日)だけで200件の抗議が寄せられた。金属探知機で身体検査を行い、メディアの取材も拒否する物々しい雰囲気の中、2回に分けてそれぞれ30人だけの入場を許可した。表現の自由を考える企画だと言いながら「観賞の不自由展」と皮肉られても仕方がないだろう。

政治的偏りを抱える企画

 抗議の理由ははっきりしている。企画展の23作品には、昭和天皇の肖像写真を燃やし、その灰を踏み付けるという動画や英霊を冒涜(ぼうとく)するような作品、慰安婦を象徴する少女像などがあり、日本や日本人に対する「ヘイト」(憎悪)と受け取った国民、県民が多かったからだ。芸術祭実行委員会(会長=大村秀章・愛知県知事)の会長代行を務める河村たかし・名古屋市長が「陛下への侮辱を許すのか!」と書いたプラカードを掲げて会場前で座り込みを行ったが、同じ思いの日本人は少なくない。

 企画展の中止問題を検証する愛知県の有識者検証委員会の中間報告は「(全作品のうち)天皇制や戦前の日本に関するものが3割、日韓関係に関するものが約2割を占めるなど、作品の内容は政治性を帯びているものは多い」と認めた。その一方で「単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない」と、理解し難い指摘を行った。

 有識者たちは鑑賞する人の気持ちを軽く考えていないか。「芸術」の下では、宗教指導者や国家元首を嘲笑、揶揄(やゆ)することをも許されるということか。

 また、県知事が実行委会長となって県や市の公金を投入し、しかも公立美術館で展示したことは、作品の偏った政治的主張を公認したとのメッセージになろう。他の公共性の高い芸術祭で、プロパガンダ作品展示の動きが強まることが懸念される。

 政治的な偏りという重大問題を抱えている企画を容認したことがそもそもの間違いだったのだ。実行委は、そのミスを糊塗(こと)するために再公開を強行したとしか思えない。

 トリエンナーレはイタリア語で3年に1度開かれる国際美術展覧会の意味だ。芸術の祭典を通じて国際交流や文化発展を図る国や地域は増えているが、政治利用を許すかどうかはその国の芸術の成熟度を表す。この騒動で日本の芸術祭が世界から敬遠されてしまわないか心配だ。

芸術監督の「義務違反」

 中間報告は重要な指摘も行っている。昭和天皇の肖像画を燃やす作品の出展を決定しても、芸術監督の津田大介氏は「作品リストに掲載せず、またその事実とそれがもたらす混乱の可能性やリスクを事務局やキュレーターチーム、会長に一切伝えないまま展覧会の開催日を迎えた」として「善管注意義務の重大な違反」「悪意ある不作為」のそしりを免れないとした。

 その上で「ジャーナリストとしての個人的野心を芸術監督としての責務より優先させた可能性」に言及した。そんな重大欠陥があって中止となった企画展の再公開は二重の失態である。