終戦の日、令和へと繋がれた御聖断


 きょうは74回目の「終戦の日」である。先の大戦で、戦陣に倒れ、戦禍の犠牲となった300万同胞の御霊の安らかならんことを祈りつつ、令和時代最初の終戦の日を迎えたことの意味を考えたい。

国民と国柄を守られた

 大戦末期、日本の主要な都市は焦土と化したものの、なお陸軍には本土決戦を主張する声があった。しかし、昭和天皇の御聖断によってポツダム宣言受諾が決定した。

 昭和天皇は「このままでは日本民族は滅びてしまう」「国体護持は困難になる」と判断され、御聖断を下されたのである。

 昭和天皇が終戦に際しての御心境を詠まれた御製に「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」「国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」がある。

 御聖断の背景にある、国と国民の将来への深い御洞察と御決意が伝わってくる。

 昭和天皇は御自分の身を擲(なげう)って、国民と国柄(国体)を守るためにポツダム宣言を受諾された。御聖断によって、戦後が出発して復興と繁栄への道が開かれ、国柄の核心である皇統が守られたことを忘れることはできない。それは平成、そして令和へと繋(つな)がったのである。

戦後日本は平和主義を掲げ、平和国家に生まれ変わったと言われる。それを象徴するのが新憲法であった。

しかしこの平和主義は、本当に日本人の主体的な意志から生まれたものかというと、疑問が残る。確かに多くの日本人は、悲惨な戦争が終わったことを歓迎した。敗戦の屈辱を正面から受け止める余裕もないほど疲弊していた。

 平和主義はそういう日本人にとって当然の選択であった。新憲法が平和主義を掲げることに反対はなかった。しかし、その条文に戦力の不保持、戦争放棄が規定されることには、平和主義は当然のこととした日本の指導者たちも強い衝撃を受けた。

 歴史上、このようなことを規定した憲法はなかったし、国家としての当然の権利をも放棄することは受け入れ難かった。だが占領下にあった日本の指導部は、これを受け入れざるを得なかったのである。

これはマッカーサー司令部の理想主義というより、再び日本が米国や他の連合国に対して戦いを挑むことのないようにするという目的から出たものだ。思想的にも矛盾を内包するものであった。何より、この押し付け的平和主義によって、日本人は平和への主体的で深い思想と体制を構築する機会を失った。多大な国家的犠牲を払ったにもかかわらずである。

 安倍政権が打ち出した「積極的平和主義」は、日本の平和への主体的取り組みとして画期的なものと言える。しかし十分なものではない。

改憲の展望見えない異常

戦後74年が経過した今も、憲法改正がなされていないこと、国際情勢が激変し、さらに周辺に平和を脅かす国々が存在する中で、改憲の展望すら見えていないのは、異常なことである。憲法が改正されない限り日本の戦後は終わらない。