昭和の日、国柄守った先人たちの苦闘


 10連休3日目のきょうは、昭和天皇の誕生日「昭和の日」である。

 平成から令和への御代替わりを2日後に控える中、その御遺徳を偲(しの)び、激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧みることは特別な意味があると思われる。

皇統の連続のありがたさ

 昭和の日、明日の天皇陛下の御退位、明後日の新天皇の御即位と続くスケジュールは、政府が決めたが、これによって昭和から平成、そして令和への皇統の連続とそのありがたさを意識させてくれる。

 戦後の日本の復興と繁栄は、昭和天皇のポツダム宣言受諾の御聖断が出発点となった。昭和天皇は、終戦への御心境を詠まれた御製3首を遺(のこ)されている。

 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 外国(とつくに)と離れ小島に残る民のうへやすかれとただいのるなり

 これらの御製は、侍従次長を務めた木下道雄氏が昭和43年に『宮中見聞録』で発表した。このうち「外国と」の御製は、推敲(すいこう)を経て昭和21年元旦付の新聞に発表された。

 また、戦禍に苦しむ国民を救うために、御自身の身を擲(なげう)って終戦を決意された、その御心境を詠まれた「身はいかに」の御製は、人口に膾炙(かいしゃ)するようになり、昭和天皇が昭和20年3月の東京大空襲の被害状況を視察された深川の富岡八幡宮はじめ各地に歌碑が建てられた。

 しかし、もう一つの「国がらを」の御製は、どういうわけか昭和天皇崩御後、平成2年に宮内庁侍従職の編纂(へんさん)で上梓(じょうし)された御製集『おほうなばら』にもとられず、26年に公表された『昭和天皇実録』にも載っていない。いわば正史から消し去られてしまった形となっている。

 だが、この御製ほど今の日本にとって重要な意味を持つ御製はないのではないか。

 「国がら」という言葉が「国体」を歌言葉で表現したものであることは明らかだ。実際ポツダム宣言を受諾するか否かを決める御前会議では、国体が護持できるかどうかが最大の問題だった。陸軍などは国体護持は危ういとしてポツダム宣言受諾に反対し、本土決戦を主張した。

 これに対し、昭和天皇は「大丈夫だ、心配はいらない」と反対派をなだめられた。こうした背景を持つこの御製には、国体護持を真剣に案じた重臣たちの思いも汲(く)み取られているようにみえる。

 「国体」の中心には万世一系の皇統がある。国民の生命とこの皇統が守られれば、必ず日本は再起できるとの昭和天皇の御信念がこの御製には込められている。

御心思い新しい御代へ

 新憲法制定によって、天皇の憲法上の立場は変化し、戦前の「国体論」が今、そのまま通用するとは思われない。

 しかし日本の国柄の中心に天皇、皇室があることは、微動だにしていない。御製に込められた昭和天皇の御心を改めて思い起こし、新しい御代を迎えていきたい。