原爆の日、核の「功罪」を冷静に考えたい
広島には1945年8月6日、長崎には9日に原爆が投下された。あれから70年。犠牲者に深く静かに鎮魂の祈りを捧(ささ)げたい。それと同時に、人類に限りない惨禍をもたらす残虐な兵器であるとともに、比類なき「戦争抑止力」でもある核兵器の持つ「功罪」を冷静に考えなければならない。
米政府高官が初めて参列
今年は米国からケネディ駐日大使に加え、核軍縮を担当する国務次官が広島と長崎の「原爆の日」の式典に参列する。
駐日米大使では2010年に当時のルース大使が初めて参列したが、米政府が首都ワシントンから高官を派遣するのは今回が初めてだ。オバマ米大統領は就任以来「核兵器のない世界」の実現を目標に掲げている。高官派遣は、核軍縮に取り組むオバマ政権の姿勢を内外に示す狙いからであろう。
広島市の松井一実市長は平和宣言の中で、核兵器を「絶対悪」とした上で「核兵器禁止条約」の交渉開始への流れを加速させるため、強い決意を持って全力で取り組むことを誓うとしている。長崎市の田上富久市長は集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案に言及し、より慎重な審議を求めて被爆地としての懸念を伝えるとしている。しかし、両氏ともより現実的視点に立ってほしい。
人類初の被爆という点で、広島、長崎への原爆投下の日は極めて重い意味を持つことは理解できる。米国をはじめ世界中の人々が広島、長崎の式典に参列するのは、原爆投下に痛みを感じているからだ。
全国の被爆者健康手帳所持者は今年3月末時点で約18万3500人。平均年齢は80・1歳と初めて80歳を超えた。高齢化する被爆者たちを前に、核兵器が持つ意味をもう一度深く考えてみる必要がある。
まず核兵器と平和との関係である。確かに核兵器は憎むべき残虐な兵器であり、廃絶されれば大量虐殺の「核戦争」が起こらないことは事実だ。
しかし、民族、宗教、領土、経済、イデオロギーなど国家間の対立要因は多くある。核を含めた兵器は戦争の手段にすぎない。戦争の原因をなくさなければ、核を廃絶しても平和を達成できるとは限らない。「核なき世界」では、人口が多く、強力な陸上兵力を持つ中国のような国家が戦争で有利になろう。
次に日本が米国の「核の傘」によって守られている現実を忘れてはならない。被爆者の苦しみは理解できるとしても、平和を守るには核抑止力が必要だ。
東アジアでは、推定250発の核弾頭を保有する中国が吉林省の基地などに数十基の核ミサイルを配備し、日本の主要都市に照準を合わせている。北朝鮮も核弾頭の小型化を進めており、いずれは日本全土を射程に収める中距離弾道ミサイル「ノドン」(射程1300㌔)に搭載されるだろう。
米の抑止力で平和維持を
中国と北朝鮮の核ミサイルの脅威にさらされるわが国が生き残る道は何か。実現可能性の低い核廃絶に期待するよりも、世界最強の核戦力を持つ米国提供の核抑止力で平和を維持する方がより現実的である。
(8月6日付社説)